あおもり×済州 お国自慢

本県と韓国・済州(チェジュ)特別自治道(済州島)は2016年8月、「姉妹提携協定」を締結。さらに親密な交流が始まっている。これを機に東奥日報社は友好交流協約を結んでいる同自治道の漢拏(ハンラ)日報と肩を組み、両道県のお国自慢を紙上で繰り広げる。

古来、人々の日々の暮らしには唄や踊り、民俗芸能が欠かせなかった。喜び、悲しみをコミュニティーで共有し、癒やし、家内安全や五穀豊穣(ほうじょう)など、八百万(やおよろず)の神々にささげる祈りとなった。1年間の青森と韓国・済州「お国自慢」連載の最後は、長く続く伝統芸として青森から津軽民謡、済州からは「立春グッ」を紹介する。

【伝統・民族】懐深く 人々に溶け込む × 古来続く祝祭 安寧祈る

【伝統・民族】懐深く 人々に溶け込む × 古来続く祝祭 安寧祈る

2018.2.23

時代とともに変化しながら歌い継がれてきた津軽民謡。青森市内には民謡を聞ける飲食店があり、観光客たちでにぎわう=「りんご茶屋」

▼津軽民謡
 日本国内には庶民によって歌い継がれてきた民謡が各地方にある。内容も農作業、漁業、山仕事から、盆踊り、子守歌、祝い歌と幅広い。人々の心を歌ってきた民謡は、時代を経てもなお根強いファンがいる。
 そんなあまたある民謡の中でも多くの人を引きつけるのが津軽民謡だ。津軽五大民謡「じょんから節」「おはら節」「よされ節」「あいや節」「三下り」は全国で広く親しまれている。だが、なぜ津軽民謡がこれほど人気なのか?
 こんな話がある。民謡ファンたちが集まった際、津軽民謡をそれぞれ一曲ずつ披露した。聞いていた素人が歌い手の一人に「どの歌も誠に素晴らしかった」とねぎらったところ、「これは全て同じ曲だ」と教えられ腰を抜かしたというのだ。
 「津軽民謡は歌い手によって印象が大きく変わる。それだけ個性が強く出るんです」。そう語るのは日本民謡協会県連合会の森川弘彩(こうさい)委員長(62)だ。「歌詞や旋律が微妙に変わる。基本型はあるものの、聞く人や歌う場所によってアレンジできる。この懐の深さが津軽民謡の強みであり魅力です」
 明治期には片手で数えれるほどだった津軽民謡は今や30ほど。時代ごとに変革者が現れ、津軽民謡を成長させた。
 その最たる人物が、成田雲竹(うんちく)(1888~1974年)だろう。津軽民謡の父と言われる。
 雲竹自身、すぐれた民謡歌手であったが、すごさは歌唱力だけではなかった。「イントロから歌に入るという構成を編み出し、その旋律に津軽という風土をより強調させた。新しい津軽民謡を世に送り出した。非常に優れたプロデューサーでもあったんです」と森川さんは語る。
 雲竹が新たな形を確立していく過程で影響を受けたものの一つが南部地方の民謡だった-と見る専門家は少なくない。民謡歌手として独立する前、雲竹は警察官として南部民謡が盛んな南部町に赴任した。
 「個」の芸人が磨き上げた津軽民謡に対して、南部民謡は踊りとともに発展し「共同体」で守られていた。だが、このことが何より雲竹に感銘を与えた。確固たる型を守る南部衆からは「これぞ南部民謡」という、揺るぎない自信がみなぎっていた。
 現在歌われている「津軽三下り」のメロディーには、雲竹が「南部馬方三下り」からヒントを得たリズムが反映されている。
 1952年に発行された「津軽民謡茶話」(東奥日報社)の中で、雲竹は次のように書いている。
 「民謡は、その歌詞なり曲なりが、皆に迎えられ、皆がそれに溶け込んで、自然の間に自らの声として歌うようになったものである」

【写真右】津軽民謡の父と言われる成田雲竹(左)。優れた歌い手であっただけでなく、名プロデューサーとして青森の民謡を全国に広めた立役者でもあった。写真右は師弟関係にあった津軽三味線奏者の初代・高橋竹山=1970年ごろ 【写真左】青森の民謡の魅力を語る森川弘彩さん

▼「自分が現れる歌」 次世代への継承課題
 民謡を今後、次世代にどうつないでいくか-。40代が若手とされる本県の民謡界で大きな課題だ。
 そんな中、うれしい出来事があった。昨年、日本民謡協会主催の全国大会で、青森市の高橋律圭(のりよし)さん(33)が本県代表として23年ぶりに民謡の部で日本一に輝いた。
 10日夜、青森市本町にある民謡酒処「りんご茶屋」に高橋さんの姿があった。日中は会社員として働き、夜は仲間とともに「りんご茶屋」で津軽三味線と民謡を披露している=写真(右)。

 

 午後7時半。津軽三味線の演奏で幕を開けた「ステージ」は、いよいよ高橋さんの出番に。こぶしを利かせ情感たっぷりに「津軽じょんから節」を歌い上げると、店内は拍手に包まれた。
 実は高橋さん、民謡の道に入ったのは22歳。小中高とサッカー一筋だった。「りんご茶屋」の女将で叔母の長谷川勝枝さんたちの勧めもあって飛び込んだ新たな世界だったが、年数が増すにつれ「奥深さを痛感した」と言う。「昔の民謡歌手の音源を聞くと、声だけ聞いてもその人のかまり(香り)がする。毎日毎日を生きている自分が歌に現れる、そんな民謡歌手になりたい」 

済州市にある観徳亭(カンドクジョン)で済州クングッ保存会の主催で立春グッが行われた=4日

▼「立春グッ」
 済州はかつて、はるか辺境の島であり、土地はやせ、台風や大雨の日が多かった。ゆえに人々は、全知全能の神や先祖に無事安寧を祈った。済州に1万8千もの神々が宿るゆえんである。旧暦の1月になると、済州では村ごとに祭祀(さいし)を執り行う。祭祀は、神々が住む場所の「堂」で行われる。さらに、神に仕えるムダン(巫女(みこ))が神に祭物を捧げ、歌と踊りで吉凶禍福を占い祓(はら)う「グッ」もあちこちで行われる。
 その中の代表的なものが耽羅国の「立春グッ」で、5世紀から続く済州島唯一の伝承文化祝祭だ。耽羅王が自ら鋤(すき)を持ち民の前で農作業の手本を見せる「豊農グッ(豊年万作の祈祷(きとう))」が起源となっている。朝鮮王朝時代になると、済州牧使(官吏)が費用を出し、済州全域から巫女を集めて自ら祭主となって執り行うグッに発展した。日本の植民地時代には行われなくなったが、1999年に済州民芸総によって復活した。済州民芸総のカン・ジョンヒョ理事長は「今年20回目を迎える立春グッは、済州市民がさらに親しみやすいよう、子どもと市民が参加できるプログラムを追加した」と述べた。
 耽羅国・立春グッは神々が役割・任務を交代する時期の「新旧間」が過ぎてから行われる。済州島では、地上に神霊がいないこの期間、引っ越しや家の修理などをすると、禁忌を犯したために神の「たたり」があると信じられていたためだ。
 今年の耽羅国・立春グッは、2月2~4日に行われた。立春グッの3日間、済州道内では官庁と交通の中心地を回って無事安寧を祈る「厄除けグッ」、市民が参加する「街パレード」、神に農業の豊凶を聞く「立春グッ」、農耕儀礼を仮面劇で見せる「立春タルグッノリ」など多彩なプログラムが続いた。祭り期間中、主会場である済州牧官衙の入り口には、春灯と、一人一人の願いを書いた紙がつり下げられ、済州の麺料理「立春千両麺」など郷土料理が振る舞われた。
 特に今年は、市民が参加する村別・世代別のワークショップも行われた。開幕日の2日は、済州市の一徒1洞、三徒2洞に住む人々と道内の大学生と青年、地域の小学生、保育園児などが祭りの主人公になり、パレードに参加した。
 今年は、済州牧官衙を中心に旧市街一帯で立春グッの主要プログラムを行っただけでなく、済州の主要官庁以外の済州空港、旅客ターミナルまで場所を広げた。豊穣(ほうじょう)を祈る七星グッ(官庁グッ)も初めて執り行い、立春グッを通じて済州共同体の安寧と和合を願う意味を付け加えた。立春グッに参加したパク・スンミさん(52)は、「自分で作った仮面をかぶって街パレードに参加したため、お祭り気分がさらに盛り上がった。地域住民の団結した力も感じられた」と述べた。
(漢拏日報 チェ・ヘウォン)

【写真上】済州市の観徳亭で耽羅国・立春グッに先立ち2月1日、立春の春灯がつるされた 【写真下】祭り初日の2月2日、住民たちが立春豊穣祈願の仮面をかぶったり、伝統灯籠を持ったりして街パレードに参加した

 ▼邪気を防ぐ 「立春書」  大門や柱に貼り付け
 天から神々が人間世界に下りて来るといわれる、新年の初めに当たる「立春」は、新旧間が終わった直後に続く。済州島では、立春の日、新しい季節が始まる前に隣人から借りたものやお金を返すなど、全てを清算して新しい気持ちで新年を迎えようとした。
 また、家の中のあちこちに「立春書」を貼った。立春書には邪気を予防する意味があり、縁起の良い言葉を書いたり、絵を描いたりして大門や柱に貼り付け一年の福を祈願した。ヒョン・ヨンジュン先生の「済州島の人々の暮らし」(2009年)によると、大門には「建陽多慶来百福(陽気が立ち、めでたいことが多く、百の福が訪れる)」、「立春大吉去千災(春となり、縁起がよく、千の災害が去っていく)」のような詩句を貼り付けた。倉庫の門には「唐虞五百年太平(堯舜時代は五百年が太平であり)農桑三萬里豊登(農事は三万里で豊年になる)」などの言葉を書いた紙を貼り付けた。
 文字の代わりに「トルハルバン」(済州島の守り神)を描いて貼り付けることもあったが、この時はトルハルバンに五方神將(五方をつかさどる神)の青い服、赤い服などを着せた。
 最近では、立春書の風習が薄れてきているが、一部では見直しの行事が行われている。西帰浦市表善面の済州民俗村は2月3、4の2日間、すべての家庭の平安と幸福を祈願する「立春帳(立春書)を書くイベント」を行った。済州民俗村の関係者は「年中行事、立春帳イベントを通じて、冬の間にたまった厄運を払い、春の気運を受けることを願う」と述べた。

【郷土料理】「アルデンテ」食感の妙 × シンプルに素材生かす

【郷土料理】「アルデンテ」食感の妙 × シンプルに素材生かす

2017.12.29

うま味がたっぷりと染みこんだせんべいはもっちりとした食感がたまらない

 ▼八戸せんべい汁
 鶏肉やゴボウ、ニンジンなどが入ったしょうゆ味のだし汁に、名産の「南部せんべい」を割り入れ、程よい食感になるまで煮込んで作る「八戸せんべい汁」。八戸市を中心とする県南地方で200年以上も前から食べられている郷土料理だ。せんべいは煮ることでもっちりとした食感になり「パスタのアルデンテのよう」と言われることも。
 現在では本県を代表する郷土料理として高い知名度を誇るが、全国に広く知られるようになったのはここ15年ほど。2006年に第1回大会が八戸市で行われたB級ご当地グルメの祭典「B-1グランプリ」を機に、八戸せんべい汁が注目を集めるようになり、一気に全国区の料理となった。

【写真左】八戸せんべい汁を地域ブランドとして確立した木村所長【写真右】熱々の鍋にせんべいを割り入れる貝吹さん。3分ほど煮込むのがおすすめと話す

 せんべい汁を通して地域おこしに取り組む市民団体「八戸せんべい汁研究所(通称汁(じる)研)」の木村聡所長(53)によると、せんべい汁といえば一般家庭の日常食で、お客さんに出したり外で食べたりする料理ではなかったという。昔は居酒屋のメニューの片隅に小さく載っている程度だったが、現在は八戸せんべい汁を前面に出す店も増え、県内外の約250店(汁研調べ)で提供されるまでになった。
 日常食のせんべい汁は、作る家庭によって味付けもいろいろだ。オーソドックスな鶏肉×しょうゆ味のほか、港街・八戸ならではの豊富な海の幸を生かした海鮮×塩味、古くから馬産地として栄えた県南地方では馬肉×みそ味など、多様なバリエーションがある。
 八戸市六日町の「肴町のわが家」では、鶏肉でだしを取ってしょうゆ味で仕上げるが、少しだけ加える煮干しが隠し味という。具材はシンプルにゴボウやニンジン、シイタケやシメジといったキノコ類など。熱々の鍋1人前に客自らがせんべいを割り入れ、好みの食感になるまで火を通して食べる。店を営む貝吹憲子さん(68)のおすすめ煮込み時間はおよそ3分。箸でせんべいの真ん中を持ち上げた際にぐにゃりと曲がり、少し芯が残るぐらいが一番の食べ頃だという。
 うま味がたっぷりと染みこんだせんべいは、すいとんやうどんとも異なる不思議な食感で体が芯から温まる。貝吹さんは「多くの人が八戸せんべい汁を食べに来てくれるようになった。みんながおいしそうに食べてくれる、こんなにうれしいことはないですね」と優しく笑った。

 

 ▼認知度79%の「全国区」  B-1契機に地域おこし
 2003年の設立以来、提供店ガイドマップの作成や小中学校での出前講座など、せんべい汁を通して八戸の魅力発信や地域おこしに取り組んでいる汁研。県南地方の家庭料理だったせんべい汁を、全国から観光客を呼べる地域ブランドまで育て上げた。
 八戸市が北海道・東北地方と首都圏在住の20歳以上の男女2600人を対象に実施した市内の観光資源調査(2014年)では、八戸せんべい汁の認知度は驚きの79.2%だった。2位いちご煮(61.5%)や3位イカ(51.3%)、4位八戸三社大祭(44.3%)らを抑えて頂点に立った。
 八戸せんべい汁の認知度が飛躍的に上昇した背景には、同市の八食センターで第1回大会が開かれた「B-1グランプリ」の存在がある。今や日本を代表する一大イベントとなったが、実は木村所長と仲間たちが生みの親という。
 汁研は2006年から毎回参加し、12年の第7回大会で念願のゴールドグランプリに輝いた。木村所長は「八戸せんべい汁を食べたいと思った人が実際に足を運び、街を歩いて魅力を発見する。私たちが本当に売り込みたいのは八戸そのもの」と強調する。

昔の済州の人々が毎日食べていた食卓。真ん中にある大きなナンプンには麦飯を盛り、汁物は人数分が用意された

▼韓国でも独特の伝統食
 離島という地理条件のため、済州の食べ物は韓国の他の地域とは違った特色がある。まず、調理法がシンプルなこと。昔の済州の人々は、料理の際に材料の鮮度を重視し、ヤンニョム(薬味や調味料を混ぜて作る合わせ調味だれ)類をあまり使わなかった。これは新鮮な食材の味を最大限に生かすため。代表的な例はアマダイ汁、太刀魚汁のような魚汁で。韓国の他の地域では、魚で汁物を作ることはあまりない。作るとしても、生臭さを消すため唐辛子の粉を多く使う。これに対し済州は、すまし汁のような魚汁を作る。
 済州ではまた、韓国の他の地域で好まれるコチュジャンではなく、味噌(みそ)を使う。野菜に味噌をつけて食べたり、味噌と酢を混ぜて作ったたれを刺し身や、ゆでた豚肉などにつけて食べたりしてきた。田舎では今でも、味噌で冷や汁を作って食べることがある。冷水に味噌と酢を混ぜ、ヒジキやワカメなどの海藻類、イカ、ナマコなどの魚介類を入れて作る。コチュジャンより味噌を活用するのは、土地がやせ、水が貴重だったため、唐辛子を収穫できなかったためとみられる。

 

【写真上】ご飯を炊いて食べることができないときは、「サツマイモのそば粉和(あ)え」を代わりに食べていた【写真下】2010年、第1号済州郷土料理名人として選定されたキム・ジスン氏(右)と息子のヤン・ヨンジン済州郷土文化院長(左)。ヤン院長は昨年オープンした「ナンプン食堂」で昔の済州人たちの日常食を復元しコース料理として出している

韓国では保存食品の種類の数が多く、昔から「両班(ヤンバン=高麗・朝鮮王朝時代支配階層)の娘がおしとやかと言われるには、36種類のキムチと36種類の塩辛、36種類の漬物を漬けることができなければならない」と言われるほどだった。
 しかし、済州で一般的な保存食といえばキムチ、塩辛、漬物それぞれ10種類ほどと、あまり多くない。これは、平均気温が高く食べ物が腐敗しやすいため、一度に多くの量を作って保存しなかったためだ。野菜などは収穫したての新鮮なものを食べることができ、あえて保存する必要もなかった。例外は、済州地域で好んで食べるクマノミの塩辛とカタクチイワシの塩辛。大量にとれるためだ。
 ただ、最近では済州の食文化に接することはなかなかなくなった。他の地域との人的交流が増え、冷や汁にコチュジャンを加えるなど、レシピが変化したものもある。このため、済州料理に注目し、伝統的レシピを保存する動きが起きている。2010年、第1号済州郷土料理名人に選ばれたキム・ジスン氏がその代表で「昔の食べ物が変化しても、根本を知ることが重要」と力説し、済州の食事を記録し、復活させるための努力を続けている。
(漢拏日報 チェ・ヘウォン)

▼麦飯、野菜、味噌、魚介、汁物 健康的な昔の食卓
 昔の済州の食事は、見た目こそ地味だが、栄養バランスがとれていた。食卓の真ん中にある大きなナンプン(食べ物を盛ったり温めたりするときに使う真ちゅう製の器)には、大勢で分けて食べる麦飯を盛り、人数分の汁物が用意された。ここに男女の区別なく家族全員が座ってご飯を食べる済州の食文化を垣間見ることができる。おかずは家の隣の畑で収穫したサンチュ、エゴマの葉といった野菜と自家製味噌(みそ)、周辺の海でとった魚介類などだった。
 稲の栽培に適さない地質であるため、ご飯は麦をベースにアワ、大豆、小豆等を混ぜる場合が多かった。また、サツマイモ、ジャガイモなどとヒジキ、アオノリなどの海藻類を混ぜたものも。食事には汁物が必ず用意され、モムグク(豚肉をゆでたスープにホンダワラやそば粉などを入れてとろみを付けた汁物)、ウニ汁のように、行事ごとの汁物があるなど、他の地域より多様だった。
 キム・ジスン済州郷土料理名人の息子のヤン・ヨンジン済州郷土文化院長は、昨年オープンした「ナンプン食堂」で、青豆味噌、テンユジ(唐柚子)など、済州の伝統食材を積極的に活用し、昔の済州人の日常食をコース料理として提供している。
 ヤン院長は「済州人は新鮮な材料を使って、最も健康的な食卓を作っていた」とし、「済州の食文化のルーツを生かさなければならない」と述べている。 

【絶景】人里近く 息のむ青池 × 360以上 多様なオルム

【絶景】人里近く 息のむ青池 × 360以上 多様なオルム

2017.11.24

色づく木々に囲まれた十二湖。手前は中の池、奥は越口の池=2016年11月、ドローンで撮影(深浦町提供)

▼白神のブナ林に点在 十二湖
 世界自然遺産白神山地の西側に位置する深浦町。その中西部、約780ヘクタールの広大なブナの森に大小33の湖沼が点在する。十二湖は白神山地の中でも最も手軽に大自然を満喫できるスポットだ。
 湖沼群は約300年前の大地震で山が崩落し、周囲の川をせき止めたことでできたといわれる。山の中腹・大崩から眺めると、12の大きな湖沼だけが見えたことが名前の由来という。
 十二湖を訪れる観光客は年間約20万人。同町を訪れる観光客の約4分の1を占め、観光振興に力を入れる町にとって重要なスポットとなっている。ここ数年は外国人旅行客も増加傾向にあり、昨年は約1万人が足を運んだ。
 観光客の一番人気は青池だ。「青インクを流し込んだよう」と形容される真っ青な湖面は、陽光と見る角度によってさまざまな表情に変化し人々を魅了する。10月上旬、青森市に住む友人と2人で訪れた盛岡市の小松茉以(まい)さん(24)は「神秘的で、こんなに青いとは思わなかった。来たかいがあった」と話した。
 青池がなぜ青いのかは長く謎とされてきた。近年は、白神山地から湧き出た非常に透明度の高い水が、太陽光のうち赤い色の光を吸収するため-との説が有力だ。さらに、湖面の白い岩(十二湖凝灰岩)によって光が反射され赤い光の吸収量が一層増えることで、青色が際立つという。

【写真右】神秘的な青色の水をたたえる青池=2016年5月 【写真左】日本キャニオンの谷底。切り立った岩肌が立ちはだかる

 十二湖を代表する青池だが、町観光課の鈴木マグローさんは「秋の青池はおすすめしていないんです」と明かす。青池の周囲にある木々の落ち葉が湖面を覆ってしまうためだ。マグローさんのおすすめは中の池や落口(おちくち)の池。特に落口の池では、ほとりにある「十二湖庵」で無料の抹茶が振る舞われており「ベンチに座って紅葉を眺めながらの一服は格別」という。
 十二湖の中心部へ向かう途中には、日本キャニオンがある。浸食崩壊によって凝灰岩の白い岩肌がむき出しになった断崖だ。八景の池近くの登山道を10分ほど登ると、絶景を眼下に一望できる展望台にたどり着く。ガイドの同伴が必要だが谷底に行くこともでき、切り立った岩壁を間近に見ることができる。

 「海沿いの国道から15分ほどで気軽に白神のブナ林や青池に出合える。軽装でも自然を満喫できるのが十二湖の魅力」と語るマグローさん。「人里に近いのにこれだけの自然が残っているのはまさに奇跡。気軽に日本の原風景を感じ取ってほしい」と話す。

 

 ▼深浦行ったらマグステ丼 食で地域活性化
 深浦町を訪れたらぜひ食べたいのが新・ご当地グルメ「深浦マグロステーキ丼(マグステ丼)」だ=写真上。
 刺し身、片面焼き、両面焼きの深浦産本マグロを3種類のタレにつけ、3種類の小丼のご飯にのせて味わう。マグロの新鮮さと、今までにない食べ方が人気となっている。
 県内一のマグロ水揚げ量を誇る同町で、マグロを活用し観光客を呼び込もうと、町内の料理人らが集まり1年かけて開発した。全国各地で新・ご当地グルメを手掛けるヒロ中田さん(リクルートライフスタイル・エグゼクティブプロデューサー)の厳しい指導の下、試作品は100点以上に及んだという。
 2013年6月にデビューすると、1年間で当初目標の1万5千食を上回る4万食を売り上げ、今年5月には15万食を突破。3年10カ月余りでの15万食達成は、全国に73品ある新・ご当地グルメの中で3番目の早さだという。
 マグステ丼をきっかけに、県内に次々と新・ご当地グルメが誕生し、現在は5種類となった。ヒロ中田さんは「この勢いで、食で地域を活性化するモデルとして頑張ってほしい」とエールを送る。
 マグステ丼は、十二湖近くにある「アオーネ白神十二湖」内のレストランなど、町内7店で提供している。

ススキで有名なサングムブリに、多くの観光客が来訪し、ススキの道を楽しんでいる

▼ススキの名所、「島の中の島」
 秋、済州(チェジュ)島を語る上で欠かせない絶景が、漢拏(ハンラ)山の紅葉、オルム(小型の火山)に揺れる銀色のススキ。済州の秋はオルムから始まると言われるほどだ。済州島には360以上のオルムがあり、中でも済州市朝天邑(チョチョンウプ)のサングムブリと舊左邑(クジャウプ)のアクンダランシオルムとソンジオルム、涯月邑(エウォルウプ)のセビョルオルム、西帰浦市表善面(ピョソンミョン)のタラビオルムなどがススキの名所として知られている。
 済州旅行の醍醐味(だいごみ)はオルムを登ることと言う人が多い。春と夏には野花にあふれ、冬には雪に覆われた静寂の全景を楽しむことができる。済州生成の説話として「ソルムンデハルマンが漢拏山をつくるために土を運んだが、途中、落とした土がオルムになった」と語られるように、それぞれが特色を持ってそそり立っている様が印象的だ。
 世界自然遺産本部のジョン・ヨンムン博士は「済州は、他の火山島と比べ多様なオルムを楽しむことができるのが素晴らしい」とし、「オルムは済州を代表する絶景と言うに値する」と解説する。

【写真上】386個のオルム頂上から見る景色は似ているようで異なり、済州の魅力をそれぞれに伝えてくれる 【写真左】エメラルド色の海を誇る飛揚島は、夕暮れに赤く染まっていく海に浮かぶ様がとても美しい

  「島の中の島」と呼ばれる済州の付属島も欠かすことができない絶景で、済州を代表する観光地となっている。済州島の周辺には人が住む7島と50以上の無人島がある。牛島(ウド)、馬羅島(マラド)、加波島(カパド)、飛揚島(ピヤンド)、楸子島(チュジャド)、遮歸島(チャグィド)は渡航船があり、観光地としても有名だ。
 海の上に牛が横たわっているようだと言われる牛島は、旅行者に最も人気のある島。白いサンゴが砕けてできた西濱白沙(ソビンベクサ)が有名で、地中海の海浜と比べても遜色がない美しさ。映画や広告の撮影地としても知られている。
 夕焼けが有名な飛揚島は高麗時代(1002年)に火山活動でできた島と推定され、「千年の島」という別名がある。海の色の美しさが有名で、奇岩怪石と海水でできた塩湿地、漢拏山がそびえる済州島の姿を一望できる展望台もあり、多くの人々を引きつける。
 馬羅島は韓国最南端の島であり、1時間半ほどで歩いて回れる平たんな散策路と、島の端を削りとったような絶壁や海蝕トンネル、海蝕洞窟が有名。加波島は4月になると一面に育った青麦が、青い海との素晴らしいコントラストを描く。
 楸子島は、島から済州島に戻るために風の力が必要だったこともあり、風を待つという意味で「候風島」という別名がある。韓国本土と済州の間に位置していて、暴風に会った船が一休みできる船乗りの安息所の場でもあったが、現在は有名な釣りのポイントとなっている。
(漢拏日報 チェ・ヘウォン)

 

▼バスでアクセス向上 中山間地は“済州の肌”
 済州島周辺の付属島のアクセスが良い半面、多くのオルムがある中山間地域(漢拏山と海岸線の中間にある山間地域)はこれまで、レンタカーでなければアクセスすることが難しかった。しかし今年8月26日、公共交通網の改編によって大きく改善され、観光地を巡るバスの新設でオルムを巡る旅がしやすくなった。
 観光地循環バスは、済州市を中心に東部地域と西部地域でそれぞれ運行しているが、東部の観光地循環バス810番に乗ると「オルムの王国」と呼ばれる東部地域の中山間地を楽しむことができる。オルムや各観光地を経由し、国内旅行案内士の資格を持った交通観光サポーターが一緒に乗っているため、オルムを歩くために必要な情報を得ることができる。料金は全体区間乗っても、1区間だけでも、1200ウォン(約120円)と、うれしい金額設定だ。
 バスの運行時間は午前8時半から午後5時半までとやや短いが、済州観光公社のオ・チャンヒョン観光産業所長は「中山間地域は、ありのままの済州の自然を体感することができる場所ゆえに“済州の肌”と呼ばれている」とし「多くの人が観光地循環バスを利用して、リーズナブルかつ便利に済州の魅力を満喫していただきたい」と述べている。

【方言】なまり楽しめる県民性 × 昔の言葉が残る「化石」

【方言】なまり楽しめる県民性 × 昔の言葉が残る「化石」

2017.9.29

「津軽弁の日」で、ユーモアにあふれた津軽弁の作品を紹介する出演者たち

▼津軽弁、南部弁、下北弁
 青森県の方言は大きく分けて三つある。青森市や弘前市など津軽地方で話されている「津軽弁」、八戸市など南部地方の「南部弁」、むつ市など下北地方の「下北弁」だ。
 弘前大学人文学部の佐藤和之教授によると、青森県の方言はアクセントが特徴的で、高低の差がはっきりしている。津軽弁は歯切れが良く躍動的で、語調や抑揚が強い。南部弁は津軽弁に比べて丁寧な表現が多く、ゆったりとして情緒的だ。下北弁は南部弁を基にしつつ、北海道や津軽の方言も入り交じっており、海上交通によって作られた独自の方言だという。
 中でも津軽弁は、全国でも一、二を争う難解な方言として有名だ。他県の人には外国語のように聞こえる-とも言われる。
 そんな津軽弁を使った俳句や川柳など、一般市民が日常生活を題材に創作した作品を紹介する「津軽弁の日」は今年で30回目を迎える。青森市出身の方言詩人高木恭造の命日である10月23日に毎年開催する、県民におなじみのイベントだ。
 タレントの伊奈かっぺいさんら出演者がコミカルに作品を読み上げると、観客は大爆笑。時には情感たっぷりの朗読に、ホロリとする場面もある。
 主催の「津軽弁の日やるべし会」代表を務める伊奈さんは「青森の人たちが予習も復習もしないで、難解な一つの言語を身につけているのはすごいこと。あくまで日常語、遊びの言葉として楽しもうとしてきたから、30年も続いたのかな」と話す。
 津軽弁では、例えば「け」という一言で「かゆい」や「食べなさい」などいくつも意味があったり、「いづい」(違和感がある)など標準語では一言で言い表せない感覚の言葉もある。「短詩系文芸に津軽弁を使うと、表現の幅が標準語の2倍にも3倍にも広がる」と伊奈さんは語る。
 スタッフの高齢化のため、作品募集は今年で最後だが、今後も何かの形でイベントを続けたいという。
 方言を楽しむイベントは南部地方にもある。八戸市では2013年から、毎年12月に「南部弁の日」が開かれている。12年に死去した郷土史家の正部家種康さんをしのぶ催しで、市公民館の語り部養成講座の受講生や児童らが、南部弁の昔話や演劇を披露する。
 実行委員長の柾谷伸夫さんは「南部弁は八戸のアイデンティティーだが、若い人に使われなくなってきている。心が温かくなる方言の文化を継承していきたい」と語った。

【写真上】「南部弁の日」の舞台で、南部弁の劇を披露する子どもたち 【写真左】津軽弁の魅力について語る伊奈かっぺいさん

 ▼藩制の名残 平内と野辺地、隣町で異なる方言
 弘前大学人文学部の佐藤和之教授によると、津軽弁と南部弁が話される地域は、奥羽山脈を境界としてはっきり分かれている。奥羽山脈の北側にある平内町と野辺地町は、隣町にもかかわらず、話す方言が違うのが特徴的だ。
 理由の一つは歴史的背景にある。江戸時代、津軽地方は津軽藩、南部地方は南部藩八戸領として支配され、平内町狩場沢と野辺地町馬門の間に関所が置かれたため、簡単に人の行き来ができなかった影響が大きいという。
 山形県出身の佐藤教授は、青森県の方言について「全国的に共通語化が進む中で、日本語の伝統的な良さを保っている。研究者にとっては宝の山だ」と魅力を語った。

「ラップバトル」動画の1場面。県民が津軽弁や南部弁で青森県の魅力をアピールする
  •  全国的にも難解と言われる青森県の方言を逆手に取り、県は「ラップバトル」動画を作成。「滑舌悪い芸人」で知られる諸見里大介さんが「リンゴとねぶただけ」などとけなすのに対し、県民が津軽弁と南部弁で青森県の魅力を紹介。方言が強烈なインパクトを放っている。動画投稿サイト「ユーチューブ」で第1弾が昨年12月、第2弾が今年8月に公開され、視聴回数は計57万回を超えている。 

済州語を保存するためのさまざまなプログラムが行われており、その中で代表的なものに済州語の歌コンテストと済州語ゴールデンベル(クイズコンテスト)大会などがある

▼若者には通じない済州語
 各国、各地域と同様、済州島にも地元の人々が使う言葉がある。古くから使われてきた言語で、「済州の方言」や「済州語」と呼ぶ。済州語は標準語とはかなり違うため、現代の若者は、済州の田舎町のおじいさん・おばあさんと円滑な意思疎通が難しい。なぜ?という短い言葉でさえ、標準語で「ウェヨ(WaeYo?)」、済州では「ムサマッシム?(Moosa MaSsim?)」と異なる。
 済州語には、標準語に無くなった子音と母音が使用されていて、9世紀以前から、ハングルが創成された15世紀前後にかけて使われていた古い言葉が残っている。韓国言語研究上、済州語はまさに生きた化石であり、資料が少ない古代国語(9世紀)、前期中世国語(10~14世紀)の空白を埋める文化遺産として高く評価されている。
 さらに済州語には、済州の精神と文化がそのまま含まれていると高く評価されている。標準語で叔父(サムチョン=SamChon)は、父の兄弟であり、特に結婚していない兄弟を指す。しかし、済州語で「サムチュン(SamChoon)またはSamChon」は、父の兄弟という意味に加え、自分より年上の人すべてを指し、男女の区別もない。これは大門(家の出入り口になる大きな門)がなく「オルレ(長い路地)」で行き来しコミュニケーションをとってきた、生活共同体を重視する文化が反映されたものとみられる。
 済州語が昔の国語の形態を多く残すことができたのは、島という地理的特性が大きく影響している。首都・ソウルから遠く離れ、済州海峡が横たわっていたからだ。言語は人によって自然に移動するものだが、荒波で済州海峡を渡れなければ当然、移動できない。
 半面、今では済州島で生まれ育った若者でも、済州語をよく知らず、方言を使う田舎のお年寄りとのコミュニケーションが難しいと感じる人が増えてきている。日常生活でも、済州語ではなく標準語を使う人がほとんどだ。カン・ヨンボン社団法人済州語研究所所長(済州大学国語国文学科名誉教授)は、著書で「済州語が消えることはすなわち、済州の精神と文化が消えることに等しい」とし「公の場では標準語を、社会生活や家庭生活では済州語を使用する『二重言語生活』をしなければならない」と強調する。
 同所長は「済州語が昔の国語の形態を保っているという点だけでなく、現実にコミュニケーションをとるための生きた言葉でなければならないという点を考える必要がある」とし「二重言語生活を通じて、済州の精神と文化を守らなければならない」と訴えている。(漢拏日報 チェ・ヘウォン) 

【写真上】2016年8月、済州語を調査・研究し、教育するためにカン・ヨンボン済州大学教授ら専門家が集まり、研究所を設立した 【写真左】観覧客が済州語の創作童謡を聞いてピアノの鍵盤を踏む遊びなどを通じ、済州語が体験できる常設展示

▼世界の「消滅危機言語」に分類、保存へ研究所
 済州特別自治道は、消えていく済州語を保存するため、2007年に韓国で初めて、地域の言語を保存するため「済州語保全及び育成条例」を制定した。しかし、本格的な取り組みが始まったのは2010年、ユネスコで消滅危機言語として分類されてから。地球上の6700以上の言語のうち、消滅または消滅危機として2743言語が登録され、済州語は「非常に深刻な危機に瀕(ひん)している言語(4段階)」に分類された。
 済州語が消滅危機言語に分類されたのは、2006年に国立国語院と国立民俗博物館が締結した業務協約がきっかけとなった。この協定で、マスコミや行政などが済州語に関心を持つようになった。
 この運動の中心人物がカン・ヨンボン済州語研究所長と彼の弟子たちだ。カン所長は済州語研究をライフワークとし、「標準語で探す済州語辞書」、「済州語口述採録報告書」などを執筆。研究所自体も、カン所長が中心になって昨年開所した。同研究所は済州語を体系的に収集・研究し、教育を通じて済州語が生活語として定着できるよう、調査研究などに当たっている。今年下半期、済州を象徴する済州語を公募し、選ばれた言葉をデザインした文様を作る予定だ。
 済州語研究所の理事として活動しているキム・スンジャ済州学研究センター非常任研究員は「済州語研究所は、済州語が生活の中で使われることを目指している」とし「そのために、済州語の教育が土台にならなければならず、しっかりした済州語教育のためには、講師養成と研究者サポートシステムを作らなければならない」と述べた。 

【祭り】光の武者と熱狂の乱舞×壮大「オルムの火入れ」

【祭り】光の武者と熱狂の乱舞×壮大「オルムの火入れ」

2017.8.25

極彩色の武者人形が、北国の夏の夜を彩る「青森ねぶた祭」

▼280万人を魅了 青森ねぶた祭
 隊列をなす武者人形、躍るハネトの波-。北国・青森の夏を彩る青森ねぶた祭は時に「日本の火祭り」と称される。期間は毎年8月2~7日。そのわずか6日間で、国内外から約280万人が、人口約28万7千人の青森市を訪れる。
 七夕祭りの灯籠流しの変形とされる青森ねぶた祭だが、その起源は定かではない。奈良時代に中国から渡来した「七夕祭」と、古来から津軽にあった習俗と精霊送り、人形、虫送りなどの行事が一体化して、紙と竹、ローソクが普及すると灯籠になり、それが変化して人形、扇ねぶたになったとされる(青森ねぶた祭オフィシャルホームページより)。1980(昭和55)年には、国の重要無形民俗文化財に指定された。
 祭りの主役は何といっても、高さ約5メートル、重さ約4トンの大型ねぶた。明かりをともした勇壮な武者人形がぎりっとにらみを利かせ、見えを切りながら中心街を練り歩く。
 ねぶたを制作するのは、ねぶた師と呼ばれる職人だ。ねぶた師は歴史絵巻や地域の伝承などから着想して題材の下絵を描く。そこから、針金や糸を使った「骨組み」、奉書紙を貼り付ける「紙貼り」、墨で形をとる「書き割り」、白地に色を塗る「色づけ」などを行い、下絵を立体化する。
 祭りを盛り上げるのは大型ねぶただけではない。重厚な太鼓の打音、哀愁漂う笛の音、軽快な手びらがねのリズムに乗せ、「ラッセラー」の掛け声と共に、花がさや浴衣を身に着けたハネトが乱舞する。ねぶたを操る「扇子持ち」、音色を奏でる「囃子(はやし)方」、ねぶたを引っ張る「曳(ひ)き手」。そして、子どもねぶたに担ぎねぶた…。みな、それぞれに華がある。
 ねぶたは韓国、アメリカ、フランス、中国、台湾など海外にも出陣。その存在が広く知れ渡っている。
 過去にイギリスの大英博物館や、イタリア・ミラノの国際博覧会でねぶたを制作した、ねぶた師で第6代ねぶた名人の北村隆さん(69)は「ねぶたは紙と光の文化。夜に光が放たれると、ねぶたに透明感を与える。色を鮮やかに見せるには紙が最高だ。ねぶたが海外に知られるのは良いこと。多くの人に来てもらいたいね」と胸を張る。
 祭りを主催する青森ねぶた祭実行委員会の奈良秀則委員長も海外へ魅力をアピールする。「短い夏に人々がかける気持ちや、歴史の中で培ったもの、それは芸術的な要素だったり、音楽的な表現だったり。まさにアートの集大成と言ってもいい。ありのままのねぶたを楽しんでほしい」

「ラッセラー」の掛け声と共に乱舞するハネトたち
子どもたちも元気いっぱいに声をからし、祭りを盛り上げる

▼扇ねぷた、立佞武多、三社大祭…北国の夏を全う
 北国・青森県の夏を盛り上げるのは青森ねぶた祭だけではない。県内各地で、さまざま夏祭りが行われている。
 城下町・弘前市の夜を彩るのは「弘前ねぷたまつり」。迫力ある鏡絵と幻想的な見送り絵が描かれた大小の扇ねぷた、そして組ねぷたが赤々と夜空を焦がす。
 平川市の「平川ねぷたまつり」は“世界一の扇ねぷた”が名物。高さ11メートル、幅9.2メートルの火扇は迫力満点。現在の骨組みを使った運行は今年が最後で、新たに作る骨組みの高さは11.8メートルになる予定だ。
 迫力でいけば、今年で運行20年になる五所川原市の立佞武多(たちねぷた)だ。大型立佞武多の高さは約23メートルで、その威容はまさに「天を突く」という表現がピッタリ。大勢の観光客を魅了している。
 豪華絢爛(けんらん)な山車が中心街に繰り出すのは、八戸市で行われる「八戸三社大祭」。国の重要無形民俗文化財で、昨年12月には、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産にも登録された。
 このほか、黒石ねぷたまつり(黒石市)や大湊ネブタ合同運行(むつ市)など盛りだくさんの夏祭り。
 北国の人々は、まるで短い夏を惜しむかのように、地域に密着した祭りに情熱を注ぐのだ。 

祭り最終日の夜、無事と安寧を祈願するメッセージが入ったオルムが赤く燃え上がる

▼今年で20回目 済州野火祭り
 海抜519メートルのセビョルオルム(セビョル丘)が真っ赤に燃え上がる。揺れる炎の供宴が頂点に達したとき、漢拏(ハンラ)山のマグマが噴出するかのように花火が空を彩る。2000年、ミレニアムを祝うため、オルムの南斜面26万平方メートルのススキ畑に火をつけ、2千発の花火で、まるで漢拏山が噴火したような演出をしたのが「オルム頂上火山噴出ショー」の始まり。以来、済州野火祭りに欠かせないイベントとして行われている。
 毎年カエルが冬眠から目覚める啓蟄(けいちつ)のある週末、済州野火祭りが済州市涯月のセビョルオルムで行われる。野火祭りの主役は、繁栄と豊かさの象徴である「火」。今年は「野火の希望、世界に広がる」をテーマに、3月2~5日の4日間行われた。コ・ギョンシル済州市長が、済州を守る1万8千の神々に無事を祈願する「野火希望祈願祭」で始まり、済州伝統の、わらぶき屋根をふく縄を作る「ジプジュル作り大会」、男性100キロ、女性は70キロのドゥムドル(石)を持ち、誰がより遠くまで運ぶかを競う「ドゥムドル持ち大会」、「馬上馬芸公演」などが開催された。
 今年は、全国から募った、悪い記憶がこもっている服を燃やす「悪い記憶燃やし」、生活に使われる済州語・方言を当てる「済州語・方言コンテスト(ゴールデンベル)」、「ドローン映像展」など七つの公募プログラムも行われた。
 とはいえ、祭りのハイライトが、最終日の「オルムの火入れ」であることは変わりない。オルム全体に火を入れる壮大な光景は、多くの人の目を奪う。オルムの火入れは、牛や馬などの家畜を放牧するため、冬の終わりから早春にかけ、中山間草地で村ごとに火を入れた「パンエ(火入れ)」を、現代風に再現したものだ。
 済州野火祭りは1997年に初開催され、今年で20回目。初回は1万3千人を集める程度だったが、今年は36万5千人が訪れるほどに成長、2016、17年、2年連続で文化体育観光部指定優秀祭り、済州島最優秀祭り、大韓民国祭りコンテンツ祭り観光部門大賞を受けるなど、韓国の代表的な祭りとなった。
 野火祭りがこれほどになるまでは、多くの紆余(うよ)曲折があった。祭り初期には決まった開催場所がなく、済州の北部地域内にある村の共同牧場をあちこち移しながら行われた。00年以降はセビョルオルムが開催場所に指定されたが、これはセビョルオルムが樹木のない草原で、自然環境の破壊が少なく祭りに適した場所と評価されたため。祭り時期も、従来は小正月(旧暦で新年最初の満月の日)だったが、花冷えと強風などに見舞われることが多く、2004年から啓蟄のある週末(金~日曜日)に変更された。
 野火祭りを担当している済州市庁観光振興課のキム・ジョンウォン氏は「野火祭りは、今まで済州市と済州観光祭り推進協議会が中心となって運営してきたが、来年からは総括監督システムを導入し、民間の専門家を中心に、より楽しい祭りになるようにする予定だ」と語った。
(漢拏日報 チェ・ヘウォン)

 

オルムに火を入れるためのたいまつを持った祭り関係者や地域住民、観光客。参加希望者は済州市に事前申請しなければならない
「馬上馬芸公演」は野火祭りの前に行うイベントとして人気を集めている

▼牧畜文化の痕跡「パンエ」催しに形変え伝わる
 済州島は高麗(こうらい)時代の1276年、モンゴル馬160頭が入って以降、朝鮮時代後期まで軍馬の生産基地として名をなした。牧畜も盛んで、当時からの風習があちこちに残っている。済州野火祭りの出発点である「パンエ(火入れ)」も牧畜文化に由来した。
 朝鮮時代、済州地域は漢拏(ハンラ)山を中心に海抜200~600メートル地帯(中山間地域)の10圏域で軍馬などを生産したが、1919年以降もこの地域を中心に116カ村の共同牧場が運営・維持された。そのため、この一帯では冬の終わりから早春にかけて火入れをよく見ることができた。中山間一帯の複数の牧草地で一斉に火がおこるのは壮観だったといわれている。
 済州島の牧畜農家は農繁期が終わると中山間の村の共同牧場に馬や牛を放牧したが、火入れは古い草を燃やし、害虫を駆除して良質の牧草を育てる生活の知恵だった。しかし、火入れを頻繁にすると、草地の生態系に影響を与える可能性があるため、共同牧場内の草地を持続的に維持管理できるよう、共同牧場組合の規約に制限が設けられた。
 正式に火入れが禁止されたのは70年、漢拏山が国立公園に指定されてから。森林保護のために禁止されたパンエは、野火祭りに形を変えて今に伝えられている。
 

【地酒】県内19の蔵元が造る日本酒 × マッコリ、焼酎、「橋本酒」

【地酒】県内19の蔵元が造る日本酒 × マッコリ、焼酎、「橋本酒」

2017.7.28

12月に新酒造りの仕込み作業が最盛期を迎える=2016年12月14日、青森市の西田酒造店

▼客のニーズ 捉えて 進化
 本県は太平洋、津軽海峡、日本海と海に囲まれ、県土の67%を森林が占める。大岳(1585メートル)を最高峰とする八甲田連峰、津軽地方を代表する岩木山(1625メートル)、1993年に国内初登録された世界自然遺産「白神山地」といった豊かな自然から清らかな水が育まれ、青森の日本酒は造り出されている。
 日本酒のルーツは古い。本格的に米作りが始まったのは、紀元後3世紀中ごろまで続いた弥生時代といわれている。全国各地に、脈々と受け継がれてきた銘酒がある。
 本県には現在、19の蔵元(20工場)が残る。その一つ八戸酒造(駒井庄三郎社長)は、本県太平洋側の八戸市に位置する酒蔵だ。1740年代、初代が近江国(現・滋賀県)から陸奥(現在の東北地方)に移り住み、酒造りを始めたことを起源とする。開業は1775年で、242年の歴史を持つ。
 同社が扱う日本酒は主力銘柄「陸奥男山」「陸奥八仙」など約15種類。四季折々に合わせた限定酒を出すなど、顧客を飽きさせない商品作りを心掛ける。日本酒文化を身近に感じてもらうため、歴史ある蔵を開放して見学も可能。試飲コーナーは人気で、国内外のファンが足を運んでいる。
 8代目蔵元の駒井社長によると、全アルコール飲料の需要のうち日本酒の占める割合は6%ほど。駒井社長は「品質向上、時代の志向に合うものを研究して造ることに尽きる」と話し、日本酒を飲む人が減る中、客の好みを研究し、蔵独自の商品を提案し続けている。
 「変革なくして進化はない」-。青森市の西田酒造店(西田司社長)の創業も1878(明治11)年と歴史は古い。青森市内に残る唯一の蔵元だ。1974(昭和49)年に発売した主力銘柄・純米酒「田酒」は、いまや“全国区”。都市部ではなかなか手に入らない人気の酒だ。
 季節ごとの商品もそろえ現在20種類ほどを扱う。さらにうまい酒を目指し、時代のニーズを敏感にキャッチしながら、設備投資を惜しまない酒造りを続けている。西田社長は「勘に頼って数値化できない造り方では失敗することもある。設備を整えなければ、毎年、良い酒を提供できない」と話し、「再現性」の重要性を説く。
 それぞれの蔵が工夫を凝らす本県の日本酒業界。2002年には、県農業試験場が酒造好適米「華想い」を開発。県酒造組合の北村裕志会長(弘前市・六花酒造社長)は「華想いが誕生し、県内で酒造りをする人たちの横のつながりが強くなってきた」。良い酒を造る-。本県の日本酒造りは進化を続ける。

【写真上】蔵を開放し見学ができる八戸酒造。国内外からファンが集まり、試飲コーナーは人気=八戸市【写真左】20種類ほどある西田酒造店の商品。季節ごとの日本酒造りを展開している=青森市【写真右】麹を寝かす設備=弘前市・六花酒造

▼国内需要は低迷 日本食ブームで海外市場好調
 日本酒を取り巻く環境は、時代の流れに翻弄(ほんろう)されてきた。県内の酒造業界に最も大きな影響を与えたのは、戦中の1941(昭和16)年に出された「企業許可令」と、42(同17)年の「企業整備令」。これにより県内の清酒工場76のうち、強制的に休業や廃止させられた工場は42にも上った。
 本県の2016年の日本酒出荷量は477万3729リットルで、前年より1.3%増と現状を維持しているが、国内全体でみると、厳しい状況が続いている。
 1973(昭和48)年に170万キロリットルを超えていたのが、ビールや焼酎など他のアルコール飲料との競合により、2015年は55万キロリットル台と、ピーク時の3分の1まで減少した。
 ただ、明るい話題もある。近年の高級志向を反映して吟醸酒や純米酒といった特定名称酒の出荷量は堅調に推移しており、15年度は17万キロリットルと、日本酒の国内出荷量の約3割を占めている。
 さらに、日本食ブームを背景にした日本酒の海外輸出量は増加傾向にある。16年の輸出金額は前年比11.2%増え、約156億円。数量は8.6%増加し、1万9737キロリットルとなり、10年前に比べてほぼ倍増した。金額、数量とも7年連続で過去最高を記録している。

農林畜産食品部から「訪ねゆく醸造場」に指定された済州セムジュの入り口。済州セムジュは伝統酒であるオメギ酒、コソリ酒の他にもニモメなどの新しい酒を開発し、製造販売している

▼多種多彩 伝統酒に注目
 自然や水に恵まれた済州島は、土地の広さや人口に比べて酒の種類が多いことでも知られている。玄武岩でろ過された火山岩盤水を使った酒は概して喉越しが良く、すっきりした後味で二日酔いも少ないという評価が多い。最も愛されているのは「漢拏(ハンラ)山焼酎」と「済州マッコリ」だ。
 焼酎は韓国各地にあるが、漢拏山焼酎はお土産としても人気がある。済州の水と高品質な陸稲を使い、香りに優れているからだ。
 済州マッコリは、政府の高品質認証も受けた「庶民の名品酒」。日本にも輸出されている。蒸したコメに、麹(こうじ)を入れたアルコール度数25度の母酒に火山岩盤水を混ぜて造るが、店頭に並んでからも徐々に熟成が進むので、地元では製造から2、3日とか10日とか、好みに応じて飲む。
 また、かつて稲作が難しかった済州ではアワなどの穀物、ミカンや五味子(オミジャ)などの果実やカニなど多様な原料で酒が造られた。こうした伝統酒で代表的なのが「オメギ酒」と「コソリ酒」である。
 オメギ酒は糯粟(もちあわ)をこね、麹を混ぜて1週間発酵させて造るもてなし用の酒。伝統的なオメギ酒は、西帰浦市の城邑民俗村(ソンウプ・ミンソクマウル)で味わえる。一般に流通しているオメギ酒は、ササの葉を加えて、幅広い年代で楽しめるようにしたもの。度数は13度で、雑穀酒ならではの柔らかな酸味を味わえる。
 一方のコソリ酒は、オメギ酒をコソリ(在来の焼酎蒸留器を指す済州方言)で蒸留させたもの。オメギ酒1樽(たる)からコソリ酒が1本できるとされ、度数は30.4度になる。飲んだ後、麹特有の香りが鼻の先に残る。まろやかな味わいにだまされて飲み過ぎると簡単に酔っ払うので、注意しなければならない。
 このほか「ホボク酒」という、メプサル(蒸したソバ)を使った酒もある。水を運ぶ陶器「ホボク」が名前の由来。かつては祭祀(さいし)などのみに使われる貴重な酒で、村で徳望が高い男性が風水・地理的に良い場所を選んで醸造した。
 この酒は1996年の日韓首脳会談の際に橋本龍太郎首相に気に入られ「橋本酒」という別名で有名になった。
 伝統酒販売会社済州セムジュのキム・スクヒ代表は「製法にこだわる伝統酒はやや高価だが、最近は関心が高まり、醸造所を訪れる人が増えた」と話す。
(漢拏日報 チェ・ヘウォン)

【写真上】高齢のキム・ウルジョン氏に代わってキム・ヒスク伝授助教(左)が受講生と一緒にお酒を作っている【写真左】コソリ酒とオメギ酒の無形文化財技能保有者に指定されたキム・ウルジョン氏【写真右】済州セムジュはコソリ酒、ニモメなど、さまざまな種類の伝統酒を生産している

 ▼各家庭の醸造酒「女性の人生が溶け込んでいる」
 西帰浦市にある城邑(ソンウプ)民俗村(ミンソクマウル)にある「済州コソリ酒が熟する家」は4代にわたり伝統酒を醸造している。昔ながらのかまどとオンドル部屋を備えている。
 来場者に麹と酒造りを紹介しているキム・ウルジョンさん(95)は、オメギ酒の歴史の生き証人。コソリ酒とオメギ酒の無形文化財技能保有者で、酒造りを母親から受け継いだ。キムさんは各家庭での酒造りが禁止されていた時代を経験。「家で暇つぶしにオメギ酒を造って飲んだり、販売したりしたが、密造酒だと告発されて罰金100万ウォン払ったこともある」と教えてくれた。
 現在は、嫁のキム・ヒスクさん(59)が、孫のカン・ハンセムさん(30)に、コソリ酒造りを指導している。
 ヒスクさんは「コソリ酒は開城焼酎、安東焼酎とともに韓国の3大焼酎」と説明。「昔の済州の女性なら誰でもコソリ酒を造ることができた。済州の女性の人生が溶け込んでいるお酒」と胸を張る。
 済州市には、韓国農林畜産食品部から「訪ねゆく醸造場」に指定された伝統酒販売会社済州セムジュがあり、コソリ酒やオメギ酒のほか「ニモメ」「シンダリ」なども試飲できる。
 ニモメはミカンの皮を原料に低温熟成したお酒で、ミカンの味と香りが詰め込まれている。度数も11度でカクテルのように楽しめる。
 シンダリは、ご飯に酵母を加え発酵させた済州の伝統飲料で、消化を助ける。体験プログラムを予約するとシンダリ造り、オメギ餅(もち)やカクテル作りを体験できる。

【山岳“頂上対決”】7月10日「八甲田山の日」 × 済州の精神的支柱 漢拏山

【山岳“頂上対決”】7月10日「八甲田山の日」 × 済州の精神的支柱 漢拏山

2017.6.30

青森市から望む残雪の八甲田連山=2017年5月

▼四季折々に表情変える
 八甲田山系は国道103号を挟み最高峰の大岳(おおだけ)(1584メートル)を含む北八甲田と南八甲田に分かれる。
 毛無岱(けなしたい)など美しい花々を咲かせる湿原や多くの湖沼群、萱野茶屋など緑あふれる高原は気軽に雄大な自然に親しむことができる。
 四季折々に変化し姿を変える八甲田。山の春は雪のため閉ざされていた国道を除雪車が掘り起こして始まる。道路沿いに高さ約7メートルの雪の壁が出来上がり、バスは「雪の回廊」を縫うように十和田湖へと向かう。
 遅い雪解けを待って6月には夏山シーズンが始まり、北八甲田を中心に多くの登山者でにぎわう。ヒナザクラやチングルマ、ワタスゲなど豊富な高山植物が目当ての登山者も少なくない。秋の紅葉シーズンにはツアーバスが行き交い、八甲田ロープウェーからはどこまでも続く錦の森を見渡すことができる。
 冬、豪雪地帯の八甲田では毎日のように雪が降り続き、山々は深い眠りにつく。一方、厳しい風雪にさらされたアオモリトドマツは雪の芸術・樹氷となって人々を魅了する。
 八甲田の自然はかけがえのないものだが、かつて山岳スキー場の開発構想が持ち上がったことがある。
 1984年、県がまとめた計画は大岳を中間地点とし、酸ケ湯温泉から田代平・箒場(ほうきば)までロープウエーを新設する計画だった。
 山岳団体などが八甲田の自然に深刻な影響を与えるとして「美しい八甲田山を子供たちに!県民の会」を結成。反対運動を展開し、結局、県は89年、計画断念に追い込まれた。
 県民の会は十和田八幡平が国立公園に指定された7月10日を「八甲田山の日」に決め、90年7月、「第1回八甲田山の日記念登山兼清掃登山」を行った。
 途中、県民の会が解散し記念登山も消滅してしまったが、2011年7月に再開。県勤労者山岳連盟が荒れた登山道の整備を訴えようと記念登山を計画。同じテーマのシンポジウムなどもあって「八甲田山の日」記念山開き登山大会として復活した。
 7月10日の「八甲田山の日」を自然保護のシンボルとして受け継ぐ一方、「山開き」の要素を加え、幅広い団体が実行委員会を組織して再スタートを切った。
 長く県勤労者山岳連盟会長(現在は顧問)を務め、県民の会副会長だった成田茂則さん=青森市=は「もしロープウエーが完成していれば利用者が集中し裸地化など大岳の荒廃が進んだほか、冬は遭難が多発したのではないか」と運動を振り返り、「登山の楽しさを伝え、登山道整備の機運を盛り上げていこうというのが『山開き登山』の狙い。行政が関わらず純粋に民間主催の『山開き』は珍しい」と強調している。
 今年の第7回記念登山は7月9日。参加者は4コースに分かれ、大岳や小岳、井戸・赤倉岳など自然保護の願いを込めて思い思いに山頂を目指す。

約200人が4コースに分かれ、山頂を目指した「八甲田山の日」記念山開き登山大会の参加者=2016年7月10日

 ▼豊富な登山コース 有志が荒廃ルートを整備
 八甲田山系には北八甲田を中心にさまざまな登山道が用意され、シーズン中は登山客でにぎわう。また樹氷を縫って滑る山岳スキーは全国的にも知られ、主な春スキーコースには誘導ポールが設置されており、初心者も安全に滑り降りることができる。
 夏山のメインルートは酸ケ湯温泉を発着点に仙人岱から大岳に登り、毛無岱を経て戻るコース。東北地方環境事務所によると2016年7~10月には逆回りも合わせ約1万5千人の入山者があった。
 紅葉シーズンは特に人気で、毛無岱の木道は登山者の“渋滞”が起きるほどだ。
 八甲田ロープウェーを使い、大岳を目指すコースも短時間で稜線(りょうせん)に立つことができるため、初心者を中心に利用者が多い。
 登山口にはヒバ千人風呂で知られる酸ケ湯をはじめ温泉が点在、登山で疲れた体をじっくりと癒やしてくれる。
 南八甲田では蔦温泉を起点に沼巡りを楽しむ散策路の人気が高い。
 最近、北八甲田の高田大岳や赤倉岳など手入れが遅れ、荒れたままになっていた登山道が次々に復活。登山者は田代平側から入山して酸ケ湯や城ケ倉、谷地温泉側に下山するなど変化に富んだコースを選択できるようになった。
 地元の山岳団体などがボランティアで登山道の刈り払いを続けた成果で、今後も作業を継続することにしている。
 県勤労者山岳連盟顧問の成田茂則さん(青森市)は「自然に触れないと大切さは分からない。多くの人に自然に親しんでもらうため、登山道の整備は必要」と訴えている。

台風が済州地方に多くの雨を降らせた後、久しぶりに漢拏山白鹿潭の水が満杯になり、サンジョン湖の姿が現れた

▼保存へ100年プラン策定
 済州島の中心にそびえ立つ漢拏山は、済州道民の生活と歴史、文化に大きな影響を及ぼしてきた。済州人は漢拏山のふもとで生まれ育ち、再びそこに戻り骨を埋める。厳しい環境に適応しながら生活してきた済州の象徴であり、済州の精神的支柱、つまり漢拏山は済州そのものと言える。
 漢拏山は約30万~20万年前の海中噴火により誕生し、約2500年前を最後に火山活動が停止した。頂上に火口湖の「白鹿潭(ペンノクタム)」と、霊室奇岩(ヨンシルキアム)の柱状節理(チュサンジョルリ)、溶岩大地といったさまざまな火山学的特徴があり、独特の植生と相まって優れた景観をつくり出している。
 漢拏山は天然資源の宝庫として高い価値があり、1968年の学術調査報告書によると、漢拏山自生植物は1782種に及ぶ。
 この漢拏山がかつて、環境破壊により危機を迎えていた。70年代以降、訪問者が急増し、体系的な保護・管理が十分ではなかったため、特に頂上部をはじめとする亜高山帯で、風化も相まって、景観だけでなく生態系にまで影響が及んだ。このため86年以降、頂上に続く一部のハイキングコースを全面または一部立ち入り規制した。にもかかわらず、2000年に国土研究院が実施した「漢拏山基礎調査と保護管理計画」で環境に影響があった面積は22万5870平方メートルに及んだ。
 この復旧のため、事業費158億ウォン(約15億5000万円)を投入し、16万5000平方メートルを回復した。ただ、03年に世界自然遺産登録のために漢拏山を訪れたニュージーランドの生態専門家が「人々があまりにも過度に復旧を進め、実際に保護すべき動植物がこの地域で消えるのではと心配になる」と指摘したことをきっかけに、05年以降は、植生の復元に力を注いでいる。
 また、済州道は漢拏山の価値を保全するためこれまでの50年を検証し、今後の50年の道筋を描く「100年プラン」を策定。漢拏山を韓国で初めて、私有地のない国立公園にするための事業も含んでいる。現在、漢拏山国立公園内の私有地は240万平方メートルで全体の面積の1.3%を占めるが、済州道は26年までに漢拏山国立公園に残っているすべての私有地を購入する予定だ。
 1994年から出入りが規制されたナムビョク登山道を再び開放するための復元事業も進めている。城(ソン)板岳(パナク)登山道に登山者が集中したことによる自然破壊を最小限にし、訪問者を分散するためだ。このほか、山岳プログラムの拡大、緊急救助要員の早期配置、高地帯簡易診療所の常時運営も計画している。
 キム・ホンドゥ世界遺産本部長は「漢拏山を保全するために、中央政府と共同協力している」とし「すべての力量を統合して、国際4大保護地域に選定された漢拏山が人類共通の遺産としてさらに愛されるように努力する」と述べている。
(漢拏日報 チェ・ヘウォン)

【写真左】ドローンで済州の東側から見た漢拏山の様子。漢拏山とその周囲を囲んだオルム(寄生火山)が済州固有の景観をつくりだしている 【写真右】1994年から出入りが規制されているナムビョク登山道。城板岳登山道に登山者が集中したことによる損傷を最小限に抑えるため、再開放が議論されている

▼5つの登山道 湖や垂直奇岩…それぞれ特色
 漢拏山の登山道は1950~60年代、済州地域の初期の登山家の主導で造られ、70年に国立公園に指定された後、本格的に整備された。オリモク、霊室(ヨンシル)、城(ソン)板岳(パナク)、観音寺(クァヌムサ)、ドンネコなど五つのコースがあり、それぞれ特色と魅力がある。
 漢拏山をできるだけ長く満喫したいなら最も長い9.6キロ区間の城板岳コースがお薦め。片道4時間半かかるため、ペース配分に気を使うが、サラオルムの入り口、ツツジ畑待避所を通って頂上まで比較的に緩やかな傾斜が続く。特にサラオルム展望台に上がって見るサンジョン湖と漢拏山の美しい景観は逸品だ。
 無難な登山をしたい場合はオリモクコース。国立公園案内所からスタートする6.8キロ区間は、訪問客が最も多く利用するコース。傾斜が急なサジェビ丘を除けば、比較的緩やかな地形が続く。霊室登山道は、霊室管理事務所、霊室休憩所、ウィッセオルム待避所を経由してナムビョク分岐点まで5.8キロあり、垂直奇岩がそびえ立っていて、神秘的で壮大な姿が印象的。
 観音寺登山道はグリン屈と耽羅(タンラ)渓谷、三角峰(サンガクボン)避難所を経て白鹿潭までの8.7キロ区間。谷が深く雄大で、標高差も大きく、漢拏山の真の姿を見ることができる。ドンネコ登山道は唯一、西帰浦(ソギポ)市からスタートする7キロコース。
 漢拏山国立公園管理所は日没前に、すべての登山客が下山できるように入・下山時間を規制している。特に悪天候時は入山が禁止されることもあり、事前に確認が必要。
 漢拏山国立公園管理所の関係者は「漢拏山高地帯は6月まで大きな気温差がある」とし「登山の際は着替えや手袋などを用意して、安全に登山してほしい」と呼びかけている。 

【地域の宝を守る】「日本最古」咲かせる小林兄弟 × 発掘と研究 プ・ジョンヒュ先生

【地域の宝を守る】「日本最古」咲かせる小林兄弟 × 発掘と研究 プ・ジョンヒュ先生

2017.5.26

桜の咲き誇る弘前公園内で、中国湖北省・武漢市の民間交流使節団と談笑する小林勝さん(左)と範士さん(中央)=2015年4月25日

▼桜の管理「弘前方式」確立
 弘前公園に1882年に植えられて以来、135年になる日本最古のソメイヨシノは今年も見事な花を咲かせ、花見客を楽しませた。
 桜の代表格ソメイヨシノの寿命は60~80年といわれる。しかし、同公園のソメイヨシノは、樹齢100年以上の木が約300本に上り、毎年ボリュームたっぷりの花を咲かせる。
 その桜をわが子のように、優しいまなざしで見守っているのが弘前市公園緑地課「チーム桜守」筆頭の樹木医・小林勝さん(63)だ。
 木々の命と美しさを保っているのは、勝さんと兄・範士(のりお)さん(67)の樹木医兄弟が編み出した、枝の剪定(せんてい)・施肥・薬品塗布を行う独特の管理技術「弘前方式」によるところが大きい。
 同方式は1960年ごろ、工藤長政・公園管理事務所長(当時)がリンゴの剪定技術を学び、桜の管理に応用したことから始まった。
 範士さんは、工藤所長が退職した翌年の73年から桜の管理に携わり、92年に当時樹齢80年で樹勢が衰え始めたヤエベニシダレの根元を掘り起こし、病に侵された根を切る「外科手術」を敢行。消えかけていた命をよみがえらせた。
 桜の寿命が短い原因を地中に求め、管理の視野を広げた範士さんの名は「桜博士」として国内外に広まった。中国湖北省武漢市の「東湖桜園」整備にも尽力し、桜に適した土壌づくりから植樹や管理の指導まで当たった。
 83年から市公園緑地協会の職員として兄・範士さんを支えてきた勝さん。2004年4月、範士さんが脳内出血で引退を余儀なくされて以降は、範士さんに代わって公園の桜を守り続けている。
 11年12月、園内最大にして樹齢100年を超える最古のシダレザクラ「二の丸大枝垂れ」が雪の重みと根の腐食で倒壊。勝さんは、範士さんが最も愛したこの桜の再生に全身全霊で取り組んだ。兄から受け継いだ技法を駆使する一方、根を再生させるため根に近縁のエドヒガンの苗木の幹をつなぐ新手法「根接ぎ」にも挑戦。12年11月には根の活着が確認され、今では毎年元気に花を咲かせている。
 定年退職後に再任用された勝さんを筆頭に14年、樹木医3人体制の「チーム桜守」が発足。勝さんはマツ、モミジなど計8千本の木の管理や事務仕事など多忙な日々の傍ら、弘前方式を若い樹木医2人に伝授している。
 「われわれ兄弟が今までやってきたことを伝えていかなければならない」と勝さん。弘前の桜を愛する兄弟が確立し、発展させた管理方法は、着実に次の世代へと引き継がれつつある。

【写真左】桜守たちの管理が実り、今年も多くの花見客を魅了した日本最古のソメイヨシノ=2017年4月29日、弘前公園二の丸【写真右】二の丸大枝垂れの根に「根接ぎ」をしたエドヒガンの幹が活着していることを確  認する勝さん。根の腐食で倒れた二の丸大枝垂れは、見事に復活した

▼「お城で花見」 今や2600本 100年目の観桜会
 弘前公園は弘前市の中心部に位置し、総面積約49万2千平方メートル。藩政時代に弘前藩を統治した津軽家の居城・弘前城の敷地が基となっており、ソメイヨシノなど約2600本の桜をはじめ、マツ2千本、モミジ1100本が来園者を出迎える。藩政時代が終わり、役割を終えた弘前城は荒廃する一方だったが、これを憂えた旧藩士・菊池楯衛や内山覚弥らの尽力で、1880年ごろから桜の植樹が始まった。
 やがて桜は春ごとに見事な花を咲かせるようになった。しかし、城下町の弘前市は封建的な気風が強く「お城で花見をするなど恐れ多い」との理由からか、花見客の大半は秋田県の千秋公園や東京都の上野公園など県外に流れていた。
 この風潮に風穴をあけたのが、道楽者の若旦那や自称「進歩派」の若者たちからなる「呑気倶楽部」。1916年、公園で盛大な花見を催してどんちゃん騒ぎを繰り広げ、市民の喝采を浴びた。
 彼らの意気に、弘前商工会が応じ、公園での花見のイベント化を企画。会員が私費を投じて実現のために駆け回り、18年、第1回弘前観桜会の開催にこぎ着けた。  観桜会は61年、弘前さくらまつりと改称し現在に至り、今年で100年目を迎えた。 

漢拏山霊室奇岩(ヨンシルキアム)を訪ねたプ・ジョンヒュ先生

▼「植物の宝庫」知らしめる
 「植物、そして漢拏(ハンラ)山を心から愛した方…大きすぎる翼を持った方なので世俗から離れ、どんどん一人で羽ばたこうとしていた。だからいつも孤独だった」
 これが、漢拏山と済州の植物の研究、溶岩洞窟の開拓に生涯をささげたプ・ジョンヒュ先生(1926~80)の墓碑銘だ。カメラを手に、済州島にあるさまざまな「宝」を見つけた先生の業績は、生物圏保全地域、世界自然遺産、世界地質公園などユネスコ3冠王(トリプルクラウン)を達成した後、さらに注目されている。
 60年代の漢拏山は未知の空間だった。先生は漢拏山に365回以上登頂し、漢拏山の価値を学会に発表。62年、済州島の植物調査団の主要メンバーとして参加し、ソメイヨシノの自生地を発見した。故パク・マンギュ国立科学館長と漢拏山を国立公園化することで一致。同館長と数回にわたって漢拏山を下見し64年、漢拏山の動植物・地質の総合学術調査を行った。
 その結果、漢拏山は66年に天然保護区域に指定され、70年には国立公園に指定されるに至った。74年、先生が執筆した「漢拏山天然保護地域、資源報告書」は、漢拏山の価値の集大成と言える。
 さらに先生は、漢拏山で植物を採集し、64年に333種に及ぶ済州島産の自生植物のリストを発表。その中には韓国、日本、いずれの学会にも報告されていない未記録種も多数含まれていた。漢拏山の植物はそれまで1400種の確認にとどまっていたが、新たな発見で、1800種類以上が自生する「植物の宝庫」として認知された。
 先生が60年代初め「済州の植物を10年突き詰めれば、世界的な学者も頭を下げるだろう」と言っていたことをみても、済州の植物の価値に気付いた先生の目は確かだった。
 先生の仲間の故キム・ジョンチョルさんの妻で、詩人のキム・スンイさんは「美しい漢拏山の天然林は一時、開発の風によって危機に置かれていた」とし「プ・ジョンヒュ先生が防がなければ漢拏山は画一化された経済林に造成されてしまっただろう」と回顧。「先生がいなかったら、漢拏山の植物資源の多様性についての私たちの誇りも10年は遅れた」と述べた。
 万丈窟(マンジャングル)、ピルレ池洞窟など、世界的にその価値を認められている済州の溶岩洞窟とその中に眠っていた歴史・考古遺物も、プ・ジョンヒュ先生が世の中に知らしめた。先生は45年、19歳のころに小学生の約30人による「ちびっこ探検隊」を率いて初めて万丈窟を踏査。韓国での洞窟の調査が本格的に行われたのは50年代後半であることを考えると、先見の明があったと言える。その後、万丈窟はしばらくの間一般に知られることは少なかったが、61年以降、再び大きな注目を浴び、82年には日韓合同調査団も組織された。
 城山邑の水産洞窟、西帰浦市の垂直洞窟の探査も先生によって初めて行われた。ピルレ池洞窟で発見された大陸性洞窟のブラウン・ベアの骨化石は、済州島が1万~1万5千年前に大陸とつながっていた根拠となっている。
 このように、済州のあちこちに先生の足跡を見ることができるが、彼の研究業績の記録は非常に少ない。彼の業績が忘れられつつあるころ、漢拏日報など地域のメディアが先生を評価し始めた。この影響で済州島は2015年、漢山プ・ジョンヒュ先生の記念事業会を発足させ、先生の自然文化遺産の保護活動と済州島の研究業績の記録・保存に努めている。
(漢拏日報 チェ・ヘウォン)

【写真左】万丈窟が一般人に開放された後、知人たちと万丈窟の前で記念写真に納まるプ・ジョンヒュ先生(後列左から3人目)【写真右】万丈窟発見70周年を迎え、昨年10月、万丈窟の入り口で開かれた記念レリーフの除幕式でちびっこ探検隊の生存者たちがプ・ジョンヒュ先生の手を握る

▼先生とちびっこ探検隊 万丈窟を初踏査
 1945年、19歳で金寧小学校に赴任したプ・ジョンヒュ先生は6年生の担任となり、子どもたちを率いて洞窟探検に出た。
 当時のちびっこ探検隊員は30人ほど。たいまつ(照明)班、油類運搬(補給)班、測量(記録)班など3チームに分かれ、わらじを履き、たいまつの明かりに頼って先生とともに1年間に5回、万丈窟探査を行った。この結果、46年10月2日に万丈窟の最終地下探査で洞窟の終点を発見。47年2月20日、地上から洞窟の終点が「マンゼンイゴモル(地域名)」に位置していることを確認し、洞窟の名前を、終点である「マンゼンイゴモル」からとって「万丈窟(マンジャングル)」と命名した。
 プ・ジョンヒュ先生とちびっこ探検隊のストーリーは、漢山プ・ジョンヒュ記念事業会の発足によって再注目されている。万丈窟の初踏査70周年を迎えた昨年10月、記念碑等がそれぞれ、万丈窟と金寧小学校の校庭に建てられた。また昨年初め、80代になったちびっこ探検隊の体験手記を発刊。メンバーが金寧小学校を訪問し、当時の探検の話を語る時間も設けられた。ちびっこ探検隊の一員のキム・ドゥジョンさん(84)は、記念レリーフの除幕式で「もう数少ない隊員に代わって感謝を申し上げる」と語り、定期的に先生の業績をたたえる活動が行われることを希望していた。 

【果物】生産量日本一リンゴ王国 × 地域の生命産業ミカン

【果物】生産量日本一リンゴ王国 × 地域の生命産業ミカン

2017.4.28

空を覆うばかりに広がる主産地・弘前市のリンゴ園(県りんご協会提供) 

▼伸びる輸出 品質に誇り
 日本のリンゴ生産量は年間約80万トン(2015年産)。このうち青森県の生産量は約47万トンで、日本産のおよそ6割を占めている。「リンゴ王国・青森」と呼ばれるゆえんだ。
 ここ数年、高品質な県産リンゴが海外でも評価され輸出が伸びている。主要輸出先の台湾のほか香港や中国で需要が増え、14、15年産の輸出量は2年連続で3万トンを突破し、過去最高を記録した。ちなみに韓国へは、残念ながらほぼゼロに近い状態だ。
 最近はベトナムやマレーシアなど東南アジア諸国からの引き合いも多い。輸出を追い風に、県産リンゴの総販売額はバブル経済期に匹敵する年間1千億円台に達し、一時の低迷期を脱しつつある。
 中央アジア・コーカサス地方原産のリンゴが、本県に植えられたのは1875年。内務省勧業寮から農産振興策として配布されたのが始まりだ。同じ年、開学したばかりの弘前市の私塾・東奥義塾(1872年開校)が招いた米国人宣教師が、教え子や信者にリンゴを分け与えたことが、県民に紹介された最初の事例-と伝えられている。
 リンゴは日本各地で植えられたが、1877年には旧弘前藩の士族が北海道にわたって接ぎ木法を学び、本県の環境に適した育種に取り組み始め、徐々に広がった。
 当初は病害虫との闘いの連続だった。カビで実腐れを起こすモニリア病が大発生。その後もシンクイ虫や腐らん病などに悩まされ、皆無作となる集落が相次いだ。しかし研究者や生産者は、リンゴづくりをあきらめなかった。研究者は病気に強い品種改良や薬剤開発に挑戦し、生産者は収量増加につながる剪定(せんてい)技術の習得に磨きをかけた。
 病害を抑える対策として始められたものに、実に袋をかぶせる袋掛けがある。新聞紙などをかぶせて虫や菌の付着を防いでいたが、袋を掛けると色付きが良くなり、貯蔵にも優れることが分かった。いまでは有袋リンゴを冷蔵することで、収穫が終わった翌年4~7月まで出荷する通年販売が可能になった。
 リンゴ生産者でつくる県りんご協会の藤田光男会長は、資材販売や運送なども含めるとリンゴ関連産業の総売上高は県内で3千億円規模になると分析。「青森県にはリンゴに情熱を傾けた先人がたくさんいた。140年以上にわたる先輩たちの思いが、現代の生産者の心にも染みついている」と、リンゴ産業が根付いた理由を読み解いた。

 

【写真右】10月のピーク時には約10万箱以上のリンゴ箱が集荷される弘果弘前中央青果の競り【写真上】鮮やかな白い花が咲き乱れるリンゴの花【写真中】特産品のリンゴを活用したアップルランド南田温泉の「りんご足湯」【写真下】特殊なフィルターを使い着色の濃淡で表現した絵入りリンゴ 

▼豊富な加工品 風呂に良し 絵を入れて良し
 リンゴはジュースやジャム、スイーツ、調味料といった加工品が豊富で、品目を挙げていくと切りがない。食べ物以外にも、葉や皮を利用した染め物、リンゴを炭化させた消臭剤兼用のオブジェという具合に土産品類も多彩だ。
 ホテルアップルランド南田温泉(平川市)では、30年前からリンゴを浴槽に浮かべた「りんご風呂」を売り物にしている。営業予約課の一戸聡志課長補佐(46)は「オーナーがリンゴ業者で、誘客の商品として始めた」という。弱アルカリの泉質とリンゴの相性がよく「ほのかな甘い香りがしてリラックスできる-と好評」とのこと。ホテル敷地内にあずまやを設け、無料でリンゴの足湯を体験できる「美足の湯」も行っている。
 佐藤袋店(弘前市)は袋掛けの技術を応用して、皮に絵や文字を描く「絵入りリンゴ」を制作。毎年、絵入りリンゴの本場フランスにも贈っている。
 有袋栽培は手間がかかるため、高齢化や後継難で人手不足の農家は敬遠しがち。貯蔵に優れた有袋リンゴが減ると通年出荷に影響が出るため、無袋リンゴの貯蔵期間を延ばす品質保持剤の研究が進んでいる。実証研究に携わっているリンゴ加工・販売の青研(同)の竹谷勇勝社長(72)は「無袋リンゴの通年出荷を実現し農家の負担を緩和したい」と話している。
ミカン畑の背景に広がる漢拏山の雪景色は済州を代表する景観として知られる 

  • ▼出荷量調整、所得アップ
     ミカンが済州島で生命産業と呼ばれるのは、農家のほとんどが栽培しているからだ。
     同島で1次産業が占める割合は12.6%で、韓国の他の地域に比べ5倍ほど高い。2015年の済州地域の農産物の総粗収入1兆3778億ウォン(1ウォン=約0.1円)のうちミカンだけで6022億ウォン(43%)を占める。さらに、農作業体験や陳皮(ミカンの皮)商品といった観光、運輸、船舶、化粧品などの関連分野も含めると、ミカン産業が済州地域の経済に及ぼす影響は幅広い。
     済州島でミカンが栽培され始めた時期は明確になっていないが、史料によれば「ギュルユ(橘柚)」などの済州在来ミカンが1052年から王に進上されていたという。
     現在よく栽培されている温州みかんは、フランスのエミール・タケ神父が1911年に日本から15本を持ち込んだのが始まりといわれ、55年まで20ヘクタール未満だった栽培面積が60年代の済州経済開発5カ年計画で急激に増加した。
     70年代にはミカンを50キロ以上売れば、大学の授業料を払うことができたため、ミカンは「大学の木」とも呼ばれた。
     ただ、最近のミカン栽培は危機に直面している。農村の高齢化で人手が不足しているうえに、グレープフルーツ、マンゴーなど、さまざまな果物が一年中出回り、ミカン消費量は減り続けている。
     このため、済州島では高品質ミカンの流通基盤づくりや生産量の適正化に向けた政策を推進。昨年、ミカンの適正生産を誘導するため、間引いた実を所得につなげる「プッギュル(putgyul)」出荷を始めた。
     プッギュルは出荷が許可された完全に熟していない露地ミカンのこと。2015年まで未熟果の流通は禁止されていたが、16年に条例が改正され合法的に流通できるようになった。
     さらに、プッギュルは一般の露地ミカンよりも抗酸化・抗がん・抗肥満効果成分が多いという事実が最近報じられ、プッギュルを求める人が増加。プッギュルチョン(プッギュル蜜)や酵素の製造などに活用されるようになった。プッギュル政策は、ミカンの出荷量を調節して農家の所得向上を狙った絶妙な一手として注目を浴びた。
     キム・ユンチョン全国農民連盟済州島連盟みかん委員長は「昨年はプッギュル政策が初めて実施され、うまくいかない部分もあった」とし「地元業界にとっては必ず改善させて定着させなければならない課題だ」と強調した。
    (漢拏日報 チェ・ヘウォン)

  •  

    【写真上】済州島の漢拏日報社はミカンが熟す毎年10~11月ごろ「済州みかん国際マラソン」を開催【写真右】美肌、風邪予防などに良いとされる陳皮(ミカンの皮)を海風で乾燥させる作業場【写真左】5月初旬になるとミカン園には白い花が咲き乱れる 

    ▼電子競売導入 新鮮さ高め、流通革新リード
     済州島ミカンの品質・需給調整・価格支持という「三兎(3匹のウサギ)」を得るため2016年に施行された制度がある。それが「みかん産地電子競売示範事業」だ。
     済州は島という特殊性があるため卸売市場までの出荷に日数がかかり、輸送中に腐敗し、適正価格にならない場合が多かった。このため、一定規格を満たした高品質なミカンを選別して、電子取引システムで流通させる電子競売制度がモデル的に導入された。
     電子競売は生産者が済州市農協で運営する電子取引システムに数量、糖度、品質、希望する下限価格などを入力すれば、登録した中卸業者や売買参加人が落札する方式。これにより、中卸業者たちは全国どこからでもミカン競売に参加でき、流通の手順も縮小、消費者はより鮮度の良いミカンを食べられるようになった。さらに、農家も運送費や荷役費などが抑えられ、卸売市場の平均価格より最大で34%高の価格でミカンを販売できるようになった。
     産地電子競売を導入した済州市農協のヤン・ヨンチャン組合長は「済州ミカン史上初めて主産地の農協が行う産地電子競売で、ミカンの流通革新をリードしていく。ミカン総生産量の15%を産地電子競売で流通させることを目標に、18年までに産地電子競売の対象数量を10万トンに拡大する計画だ」と述べた。
【自然環境】世界有数の豪雪地帯 × 強風吹く溶岩地帯

【自然環境】世界有数の豪雪地帯 × 強風吹く溶岩地帯

2017.3.31

巨大に育った樹氷「スノーモンスター」が目を引く八甲田山系 

▼長い冬 雪と暮らす工夫
 「こな雪」「つぶ雪」「わた雪」…。青森に降る雪は、いろいろな呼び名で、作家太宰治の小説「津軽」や、新沼謙治のヒット曲「津軽恋女」の歌詞に登場する。多くの県民は約4カ月に及ぶ冬期間、さまざまな雪と向き合いながら日々を暮らしている。
 本州最北端に位置する本県は、冬期間、大雪が降る土地柄として知られる。特に青森市は1年の平均降雪量が669センチに及び、人口30万人規模の自治体では世界一の豪雪都市だ。中でも同市の八甲田山系にある温泉地・酸ケ湯は、2013年に積雪量566センチと日本歴代2位を記録、今冬も日本国内の全観測地点323カ所中でトップの積雪量となっている。
 なぜ、青森市にこんなにも雪が降るのか。青森地方気象台の前田達也気象情報官によると、大陸から冷たく乾いた季節風が上空に流れ込み、熱と水蒸気を取り込み雪雲が発生。その雪雲の高度が約千~2千メートルと低く八甲田山にぶつかるため、西側の津軽地方を中心に多くの雪をもたらすのだという。
 冬期間、青森市民にとって欠かせないのが家の周りの雪片付けや屋根の雪下ろし。雪の片付け方の善しあしが、その家に住む人のマナーとしてみられることもあり、多い時では一日に何度も、雪かきに汗を流すこともあるなど重労働となっている。この時期、ホームセンターにはスコップなどの除雪用具が並び、中でも、女性でも一気に大量の雪を片付けられる“ママさんダンプ”は一家に1台はあるほど普及している。
 雪が多い時には、片付けた雪を置く場所に困ることも。このため、一部の住宅地では片付けた雪を水で流す流・融雪溝が張り巡らされており、青森市内では総延長約131キロにも及ぶ。雪が降った夜は、除排雪車も出動し、翌日朝に交通渋滞が発生しないよう、夜通し作業することもある。
 長い冬を快適に過ごす工夫はあちこちで見られる。携帯電話の普及によって近年は数が減ったものの、街角にある公衆電話ボックスは、雪が積もっても扉を開けられるよう階段付きで、地上から数十センチの高さにある。住宅の玄関にはガラスやアクリルで囲った風除室を設け、室内に冷たい空気が入ることを防いでいる。
 青森市の雪対策に取り組む都市整備部の遠嶋祥剛都市拠点整備室長は「市民のみなさんが雪とともに暮らせる街づくりを進めています」と話す。

 

【写真右】雪の壁が両側から迫る、八甲田山系の観光道路「八甲田・十和田ゴールドライン」。雪深い冬は閉鎖され、開通前の3月には徒歩で巡るイベントが開かれる【写真上】大雪が降り、歩道の両脇に雪の山ができた青森市【写真下】伝統的な防寒具「角巻」を身に着け、激しい地吹雪を体験する観光客 

▼スキー、樹氷、回廊、地吹雪 観光に生かす
 青森県民にとって、雪は決してやっかいな存在というだけではない。多くの人々に冬ならではの楽しみももたらしている。
 県内にはファミリーゲレンデから競技用の上級者向けまで大小12カ所のスキー場がある。八甲田山系では、「スノーモンスター」と呼ばれる樹氷を横目に、滑りを楽しむ「バックカントリー」も人気だ。雲や霧が、アオモリトドマツなどの樹木に付着し、時間をかけて大きく育った樹氷が立ち並ぶ様は圧巻で、特徴ある景観をつくり出している。
 また、近年はさらさらの「パウダースノー」を求め、欧米やオーストラリアなどからもスキーヤーらが訪れており、世界中から熱い注目を集めている。
 冬期間通行止めの観光道路「八甲田・十和田ゴールドライン」。4月の開通直後は、高さ7メートル前後の雪の回廊がお目見えし、自然と人間の力が織りなす雄大な景色が観光客の人気を呼んでいる。
 五所川原市金木地区では、通常の吹雪に加え、地面に降り積もった雪が強風で巻き上げられる「地吹雪」を観光資源に生かして人気を呼んでいる。伝統的な防寒具「角巻」を身に着けて雪原を歩く「地吹雪体験ツアー」は非日常を味わえるとあって国内外から観光客が訪れ、1988年の開始から昨年まで約1万3千人が参加。主催する津軽地吹雪会の角田周代表は「激しい地吹雪と、雪国の古い文化を一緒に楽しんでもらっています」と話す。
 桜の名所、弘前市の弘前公園では、市民手作りの雪燈籠(どうろう)や雪像が並ぶ「弘前城雪燈籠まつり」が人気だ。今冬41回目を迎え、同市観光政策課の大和田旬主幹は「生活の上では雪が少ない方が良いが、まつりのためにはたくさん降ってほしい」と笑う。
やせた土地を均すために石を積み上げたことから始まり、土地の境界を示す役割に発展した。黒いバッダムがこの町と野原に切れ目なくつながっている景観が、まるで竜が動くようだとして「黒龍萬里」と呼ばれる 

▼生きる痕跡 石垣は歴史
 火山島の済州は「石の島」と呼ばれ、土地がやせているため干ばつになることも多かった。済州島の人々は、過酷な環境にあらがいながら、自然に適応し、厄介物の石を生きるための手段として発展させてきた。その代表が石垣だ。石垣は畑を耕す際に出てきた石を片付けるところから始まり、土地などの境界を示す手段や防風、農作物や村・墓の保護などの役割を果たしている。
 石垣には、石と石の隙間(風穴)が目立つが、そのことによって風を分散させ、簡単には崩れない。秒速8メートル以上の強風が月平均6.1日以上吹く済州の風土に最適で、世代を継ぎながら使い道によって違う形で積み上げられていることから、人々の生活と知恵が溶け込んでいる石垣を「済州島の歴史」と呼ぶ人もいる。
 大通りから家をつなぐオルレ垣(石垣の種類の一つで町の路地のこと)の場合、家の中に吹き込む風を弱めるために曲がりくねっており、方向によって高さも違う。オルレ垣の南側は日当たりが良くなるよう低く積まれ、一方、北西風が吹きつける北は強風よけのため、大人の身長よりも高く積まれている。また、厳しい環境で漁業を営むため、海の中のウォンダム(漁労用の石垣)を活用。小さい湾が形成されたビーチなどを石垣でつなぎ、満潮時に魚が入るようにした、一種の石網を作った。
 同じ石垣でも、ジプダム(わらの壁)、オルレ垣、バッダム(畑の境界)、環海長城(外敵の侵入を防ぐ軍事目的の石垣)、ウォンダム、ジャッソン(馬や牛の牧場の境界)、サンダム(墓を保護する垣)など、位置や目的によって名称が異なる。石垣の中で最もよく見られるのはバッダムで、済州の石垣の総延長3万6千キロのうち2万2千キロを占める。昔の人々が畑を耕すたびに出てきた石を積んだものと推定される。済州農業の始まりと時代をともにしてきたバッダムは、1234年、済州判官のキム・グが財産権争いを防ぐため、境界用として活用したことにより済州全域に拡散したとみられる。
 済州伝統文化研究所長を務めたパク・キョンフン済州文化芸術財団理事長も「生活が狩猟から農業に変わる時期、農地を確保するための努力の一つとして、石を選び分けたのがバッダムの始まりだと思われる」とし「慣習的に行われていたものをキム・グ判官が制度化した」と見解を述べた。
 バッダムはまた、曲がりくねった形によって土や種が飛ばされないよう風を弱める役割も果たしている。バッダム専門家のカン・ソンギ教師は「済州は海から吹いてくる風を防いでくれるものがほとんどないため、バッダムを積んだと思う」とし「風の強い海岸地域の場合、3メートルの高さのバッダムが発見されていることを見れば、畑の境界を示していたバッダムが防風の役割も担っていたと推測している」と述べた。 (記事 チェ・ヘウォン、写真 カン・ヒマン、カン・キョンミン)

   【写真左】済州の石垣は火山島と呼ばれる厳しい環境に適応して生きてきた済州島民の痕跡であり、人生そのもの。黒い石垣のバッダムは季節ごとに青い海、菜の花とマッチし、済州だけの固有な風景をつくり出している【写真右】オルレ垣は大通りから家につながる路地で、家に風が直接入ってくるのを防ぐため曲がりくねっている 

▼バッダム「黒龍萬里」の価値 新たな側面探る
 バッダムは2014年4月1日、厳しい環境を乗り越えて農業を続けてきた痕跡が認められるとして、世界の重要農業遺産に認定された。また、「大地と時間がもたらした作品」と呼ばれるほど美的価値も優れている。季節ごとに緑の作物や黄色の菜の花、青い海とともに、済州固有の景色をつくり上げている。済州のあちこちで延々と続くバッダムは、まるで黒龍が動くように見えるので「黒龍萬里」とも呼ばれる。
 バッダムの景観を楽しめる場所の一つが金寧・月汀地質トレイルコースだ。金寧・月汀地質トレイルコースはテュムラス、海岸砂丘などさまざまな地質資源を見ることができる。また、地と海を根気強く開拓して生きてきた人々の生活も見ることができ人気だ。
 コースには、海から侵入する敵が海岸線に接岸することができないように石で城を建てた環海長城も含まれる。金寧・月汀地質トレイルは14.5キロと、徒歩で約5時間かかる道のりだが、「月汀里パッダム道」など六つのコースだけを巡る月汀里短縮コース(4.7キロ)もある。
 バッダムを保存して農家の生活を向上させることに活用する努力も続けられている。カン・スンジン済州発展研究院博士(済州島農漁業遺産委員長)は、バッダムを媒介とした経済共同体をつくり、住民の所得を増大させる方法を模索しようと「済州バッダムを活用した農村の6次産業化事業」を進めている。
 カン博士は「済州バッダムの6次ブランド商品の開発と済州バッダムの価値上昇アカデミーの運営などを通じて事業基盤を構築する予定」とし「基盤ができれば農民や観光客を対象に済州バッダムの自然治癒・健康プログラムを運営してバッダムの新たな側面を探したい」と述べた。

【世界自然遺産】白神山地 × 済州の火山島と溶岩洞窟

【世界自然遺産】白神山地 × 済州の火山島と溶岩洞窟

2017.2.15

  • 津軽峠から高倉森を往復するコースは白神山地を知る基本ルート。いつの時代も変わらないブナが連なり、悠久の歴史を感じさせる 

    ▼ブナと渓流 悠久、雄大
     白神山地は本県南西部から秋田県北へ延びる山域(約13万ヘクタール)で、うち世界自然遺産地域は約1万7千ヘクタール。ブナを中心とした広葉樹で覆われ、手つかずの豊かな森が広がっている。
     腐葉土で覆われたブナ林の保水能力は高く、山域全体が巨大な水がめ。流れ出た水は津軽地方一帯を潤し豊かな恵みをもたらす。
     山域は千メートル前後の山が連なるが、谷筋が深く切れ込み、沢が複雑に絡み合う地形は人の出入りを阻み、開発を拒んできた。
     ツキノワグマやニホンカモシカ、ニホンザル、イヌワシなどが生息。かつては狩猟集団のマタギが残雪期に伝統的なクマ狩りを繰り広げた。
     原生的な自然環境が売り物の白神山地だが、ベテランガイド土岐司さん(「エコ・遊」代表取締役)に自慢の見どころを聞いた。
     土岐さんは「白神山地はブナ林と渓流の魅力に集約される」という。
     拠点施設のアクアグリーンビレッジANMONに近い「世界遺産の径(みち)・ブナ林散策道」は約2キロの周回コース。手軽にブナの森に分け入り、早春から晩秋まで、四季の移ろいを感じることができる。
     初心者も楽しめる山歩きなら津軽峠から高倉森を往復してみたい(約4・4キロ)。峠からは白神岳や向白神岳などの眺めが素晴らしい。ブナの巨木「マザーツリー」は推定樹齢400年で、駐車場から5分ほどの距離。
     土岐さんは「高倉森への往復は人の手が入らない、ありのままのブナ林を楽しめる。津軽峠からの展望は白神山地のスケールが分かり、雄大さが伝わる。峠に立つと、いつも白神らしい風が吹いていると感じてしまう」と入れ込む。
     白神観光のメインは2015年まで、ANMONから三つの暗門の滝を目指すコースだった。誰もが容易に滝にたどり着けるよう、西目屋村が難所に仮設歩道を取り付けていたためだ。
     ところが落石事故をきっかけに村が16年、歩道の設置を見送り、滝へ向かうコースは徒渉が欠かせない上級者向けに衣替えした。
     白神観光は思わぬ形で転機を迎えた。
     土岐さんは「暗門の滝へ向かうコースが閉鎖されたわけではないし、川をこいで滝へ行ってみたいという、根強い需要はある」とした上で「白神というと暗門の滝だけがクローズアップされすぎた。滝中心の誘客を見直し、渓流歩きを売り込むなど、『観光』から体験・宿泊型の『旅』へ変えるチャンス」と強調した。
    【写真右】暗門の滝は2016年から西目屋村が仮設歩道の設置を見送り、徒渉が必要な上級者コースに変わった【写真上】山が黄色に染まる白神山地の秋【写真中】渓流に身を乗り出し、じっと辺りをうかがう親子ザル=赤石川上流【写真下】川岸の変化を楽しみ、赤石川を下るツアー客 

    ▼暗門の滝だけじゃない 一極集中の誘客見直し
     暗門の滝は白神山地入山の約6割を占める人気ポイント。西目屋村によると2015年は3万4125人を集めた。ところが16年は村が仮設歩道の設置を見送り、滝へ向かう入山者は激減した。
     ただ、近くのブナ林散策道を再整備したこともあって、暗門の滝周辺の入山者は2万7971人と前年の2割減にとどまった。関和典村長は「暗門の滝はもともとスカートやハイヒールで行く場所ではなかった。誘客のため道なき道に仮設歩道を造り、多くの観光客が利用したが、落石事故で転機を迎えた。自然は自然に返さなければならない」と振り返った。
     滝へ向かう団体客は減ったものの、アクアグリーンビレッジANMONのコテージ宿泊客は2割増し。ANMONの利用者と売り上げは共に5%減とほぼ横ばいだった。
     村担当者は「団体客は通過型で、食事や売店の売り上げはもともと期待できなかったが、昨年は滞在型のグループ客が増え、客単価が上がった」と分析している。
     村は暗門の滝への一極集中から、津軽峠やマザーツリーなど観光の分散化を図る計画を進めている。関村長は「自然との関わりについて仮設歩道から多くのことを学んた。自然と人間の共生が必要で、それが世界遺産を抱える村の役割ではないか」と思いを込めた。

  •  

漢拏山は、高度によってさまざまな植生が育っていて生態系の宝庫といわれている。ゲンカイツツジ、チョウセンヤマツツジは漢拏山固有の景観を作り上げた(漢拏日報提供) 

▼植生の宝庫、劇的景観
 10年前に世界自然遺産に登録された「済州の火山島と溶岩洞窟」には、漢拏山天然保護区域と城山日出峰、そしてコムンオルム溶岩洞窟系が含まれる。コムンオルム溶岩洞窟系はコムンオルムとペンディ窟、万丈窟、金寧窟、ダンチョムル洞窟が代表的だ。
 その中で、ユネスコの世界自然遺産登録に最も決定的な役割をしたのは、まさにコムンオルム溶岩洞窟系だ。溶岩洞窟系を形成した母体として知られているコムンオルムは古くから神聖な場所とされ、9匹の龍が如意宝珠を抱いたような(九龍弄珠)形をしている。
 コムンオルム溶岩洞窟系は、その長さや規模、複雑な通路構造、洞窟内部の溶岩地形の保存状態などで世界的重要性を認められた。ユネスコも「このような種類の溶岩洞窟を既に見たことのある人でさえ、コムンオルム溶岩洞窟系の素晴らしい視覚効果に感心する」とし「洞窟の天井と床を色とりどりの炭酸塩生成物が飾っている。炭酸塩堆積物は暗い溶岩の壁に壁画を描いたかのように所々を覆っており、独特の見どころを演出する」と紹介している。
 基礎学術研究などの理由で、現在コムンオルム溶岩洞窟系の5カ所のうち、万丈窟のみ一般に公開されている。
 城山日出峰は海に突き出した景観が劇的である。日出峰は火山(Surtseyan-type)が浅い海の中で爆発した過程を知ることができるという点で、地質学的価値を認められた。急な傾斜を上って頂上に到着すると、深い噴火口と水平線が壮観だ。雲に包まれたまま、噴火口だけが見える日出峰の姿は神秘的である。
 漢拏山は済州人のルーツといわれる。時には両親のようになごやかに、時には驚異的な姿で、季節ごとに違った魅力を見せてくれる。
 高度により暖帯・温帯・亜高山帯の植物などが多様に育ち、生態系の宝庫として学術的価値が高い。漢拏山頂上近くにはクロウベリー、ブルーベリーの木などの高山植物が根づき、ゲンカイツツジ、チョウセンヤマツツジは漢拏山特有の景観を形成している。漢拏山天然保護区域には約2500ヘクタールの面積に、世界で唯一、最大規模のチョウセンシラベの森も形成されている。

   【写真左】ユネスコの世界自然遺産に登録されるのに最も決定的な役割をしたコムンオルム溶岩洞窟系の一つ【写真右】浅い海の水中から火山が爆発した過程を知ることができる城山日出峰(いずれも漢拏日報提供) 

▼コムンオルムは予約制 価値保全へ人数制限
 済州島は世界自然遺産に登録された後、自然の価値を守るため▽世界自然遺産地区内の私有地の買収▽探訪予約制実施▽世界自然遺産解説者の運営-などを推進している。
 済州は過去10年間で約543億ウォン(約54億円)を投入して世界自然遺産の核心地域内の私有地を購入した。その結果、登録時に344万3392平方メートルに達していた私有地の99.9%(343万4949平方メートル)を買収した状態だ。
 押し寄せる観光客を効率的に管理するため、探訪予約制度が実施されている。コムンオルムは平日100人、祝日200人の訪問客のみ入ることを許可し、必ず1日前に電話やインターネットを介して予約しなければならない。2017年下半期からは漢拏山と城山日出峰も探訪予約制を実施する案が検討されている。
 2015年には約100人の世界自然遺産解説者が活動しており、活動のために所定の教育課程を経て、訪問客たちに世界自然遺産の自然の価値、文化、歴史などを紹介している。
 自然解説者と一緒にコムンオルムを探訪したキム・ヨンファンさん(64)、ユン・オクフィさん(62)夫妻は「植物を保全するための施策について説明された内容が最も印象深かった」とし「これまで人を中心に世界を見てきたが、解説者の話を聞いて自然の視点で新たに眺めることができた」と語った。 

▼担当記者です チェ・ヘウォン

 

1987年生まれ、済州出身。漢陽大学を経て、2015年漢拏日報に入社。教育文化部・政治部・社会部を経て経済部所属観光担当。今回の連載の済州側の記事を全て担当する。