57年前、この橋を車で通過中に五輪マークを目にした澤畑さん。今は東京スカイツリーも見える=東京都江戸川区

 秋天の青空に五つの輪を見たのは、得意先へと向かう車中だった。田名部町(現・むつ市)出身の澤畑進さん(78)=東京都在住=は1964年当時、プラスチック製品を扱う都内の商社に勤務。営業で自ら受注した部品を職人に代わって夜通し製造し、納品まで1人でこなした。「祭典」の開会式が挙行された10月10日も、普段と変わらない激務のさなかだった。

 田名部高校を卒業し61年に上京。金型職人として経験を積んだ後、商社の営業マンに転身した。手掛けた製品の一つは、模型のレーシングカーなどに使う小型モーターを覆うカバー。軽量化と防音機能を高めるため、ブリキ製からプラスチック製に主流が変わっていた。

 東京五輪の頃、得意先から翌日を期限にモーターカバー数千個分の納品を毎日のように受注。夜間も作業しないと間に合わないが、職人に勤務時間の延長は頼めない。夜になると千葉県内の工場に自ら出向いた。

 機械にプラスチックの木っ端を入れ、高温で溶かして金型に送り込む。工場に夜通しこもり、翌日は完成品を軽貨物車「ハイゼット」に積み、都内の納品先まで自ら運んだ。徹夜続きだったが「働くことが当たり前、義務だと思った」。

 下北のコメ農家に生まれ、11人兄弟の10番目。高校時代は陸上競技で活躍し、400メートルは県3位の実力を誇った。競技を続けるために進学を模索した時期もあったが、「東京の大学に行かせては家族が大変だろう」と思い直した。

 上京した頃の記憶を呼び起こすと、フランク永井の流行歌「13800円」(57年発売)が頭に浮かぶという。大卒初任給が曲名の由来だ。澤畑さんは残業代を稼ぐため、無理を押して働き続けた。納品へ向かう車中は眠気との格闘で、「事故が起きれば病院でゆっくり眠れる」との考えが頭をよぎる日もあった。

 秋晴れの午後。いつものように得意先へ車を走らせた。荒川に架かる都東部の橋を渡る途中、ハンドルを握りながら青空の向こうに現れた飛行機雲の輪を視界に捉えた。自衛隊のブルーインパルスが空に描いた、祭典のシンボルマークだ。

 開会式の開催は知っていたので「あれがそうか」と気づいた。五輪を目にした記憶は、後にも先にもその瞬間だけ。家にも工場にもテレビはなく、「あっても見る暇はなかった。一日一日の仕事で精いっぱいだった」。

 57年後、東京の空に再び五輪マークが描かれた。澤畑さんは自ら立ち上げた会社で今も働き続けている。

 東京五輪そのものに特別な感慨はない、と言う。一方で、あの頃の努力が今の幸せを形作ったとの実感はある。「よく頑張ったなと思うし、周りも評価してくれた。だからこそ今がある」。若かりし自分に胸を張った。