15歳で集団就職列車に乗って上京し、現在は建設会社社長の天間さん=東京都板橋区

 青森駅のホームで、母は泣いていた。天間林村(現・七戸町)出身の天間勝治さん(73)=東京都在住=は、中学校の卒業式から1週間ほどで、東京・上野駅へ向かう集団就職列車に乗り込んだ。井沢八郎(弘前市出身)の「あゝ上野駅」が世に出る前年、1963年の春だった。

 コメ農家の次男。浪費家だった親族の影響で家計は困窮。母は寝る間を惜しんで働き、借金を返し続けた。自身は学校から戻ると幼い妹のおしめを取り換えておんぶしたり、まきを割って夕飯の支度。まきストーブでコメを炊き、魚が買えなければ、畑の野菜で家族全員のおかずをこしらえた。

 いずれは田畑を譲ってもらい、分家として地元に残る-という将来像はいつしか消え、東京に出ると決めた。上京の日、母は就職担当の教員と駅まで見送りに来てくれた。「財産をなくさなければ息子を行かせずに済んだのにと、情けない思いでいたのだろう」。母の涙は今も忘れられない。初めて降り立った大都会はどんよりとした雲が覆い、何より空気がまずかった。

 江戸川区の米屋で住み込みながら働き、都立高校の夜学にも通った。奉公先に自室はなく、座敷の一角で寝起きした。日中は作業着に前掛けをして店の番。御用聞きの日は30軒ほどを巡り、午前に注文を取って午後に配達。自転車で店と得意先を何往復もした。

 64年10月に東京五輪が開幕すると、思いがけず観戦チケットが舞い込んだ。学校ごとに割り振られたうちの1枚を、2年生ながら風紀委員長を担っていたことで手にすることができた。

 10月23日、男子サッカーの決勝が行われた国立競技場。小雨の降る中、雨具を身にまとって観客席に座った。優勝を決するカードは、東欧の強豪同士でハンガリー-チェコスロバキア。相手の頭上を飛び越えるかと思えるほどの高いヘディングに、「これじゃあ日本人は勝てないな」と圧倒された。競技場を渦巻く地響きのような歓声にも驚いた。

 あれから57年。天間さんは現在、板橋区で社員約40人を抱える会社の社長だ。そして今夏の東京五輪、今まさに熱戦が繰り広げられているアーチェリー競技(江東区)の会場設営に際し、芝生の整備などに携わった。アーチェリーは5大会連続出場を果たした青森市出身の古川高晴(36)らが奮闘。その舞台の一角で、夏の日差しが芝生の緑を鮮やかに照らした。

 「(64年)当時は見るだけだったけど、今度はつくる方の立場。見たりつくったりと、生涯で2回も東京オリンピックと関わりを持てたのはうれしい」。幸運な巡り合わせを素直に喜んだ。