1964年東京五輪の頃に過ごした街を歩く佐藤さん=東京都大田区
上京後、工場で働いていた当時の佐藤さん(右)(本人提供)

 東京で2度目となる夏季五輪が23日に開幕する。日本に初めて五輪がやって来た57年前は、高度経済成長の真っただ中。1964年を東京で生きた青森県出身者の「追憶」を記していく。

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 両親から贈られた腕時計を、質に入れざるを得なかった。1960年春、集団就職列車に乗って16歳で上京した相馬村(現・弘前市)出身の佐藤義勝さん(78)=横浜市在住。東京都内の機械製造会社で働く傍ら、定時制の高校に通った。5、6千円の月給は、学費と食費、実家への仕送りでほとんど消えた。

 父は村内で隆盛を誇った舟打鉱山(62年閉山)の労働者。しかし海外との競合が激化して廃鉱が取り沙汰されると、家族の暮らしを支えるため、長男といえども上京を余儀なくされた。時代は高度成長期。“金の卵”として、布団袋と柳ごうりを手に、弘前駅から列車に乗って古里を離れた。

 缶を作る機械の製造工場で、朝8時から夜遅くまで顔や手を真っ黒にして働いた。誰よりも早く正確に作業しようと夢中だった。反対する上司を説得し、夜学にも通って製図や設計を学んだ。授業が終わるのは夜中だが、再び工場に戻ってまた働いた。

 しかし学費の工面で生活は困窮。実家の援助は見込めず、会社近くの質屋に何度も出入りした。両親が持たせてくれた銀色の腕時計も数回、質に入れざるを得なかった。上京する前日に「持って行け」と母から手渡された餞別(せんべつ)。質入れの時は必ず「絶対に流しちゃいけない」と心に誓った。

 仕事と学業の両立に腐心していた64年、アジア初開催となる東京五輪が開幕。10月10日午後、会社の設計室で炭を使って製図に没頭していると、隣の応接室から歓声が聞こえてきた。

 ドアを開けると、先輩が仕事を投げ出してテレビに見入っていた。五輪の開会式だ。ブラウン管の向こうで、聖火台の炎が燃え上がった。その映像は、今も目に焼き付いている。

 休日は月2回しかなく、競技を直接観戦することはかなわなかったが「日本で初めてのオリンピックに、血がじゃわめいだ」。

 上京から約60年。工場は移転したが、佐藤さんは今も同じ会社に在籍し、営業顧問として多忙な日々を送る。息子の帰郷を願う両親を思って一時はUターンも考えたが、妻と住む横浜で暮らし続けようと決めた。

 間もなく57年ぶりの東京五輪が幕を開ける。新型コロナウイルス禍が収束しないことで「アスリートには不安や葛藤もあるだろう」と思いをはせつつ「無事に成功してほしい」と願う。

 かつて工場が立地していた東急多摩川線・武蔵新田駅前(東京都大田区)。今は街頭に「TOKYO2020」の旗が翻る。久々に街を歩くと、学費を工面した質屋が同じ場所で営業を続けていた。「風景は変わったけど、原点に戻った気持ちになれる」。両親の形見となった腕時計は、書斎で大切に保管している。