特別選者 梅崎流青氏講演 時代への批判、思い 胸に

 弘前市出身の陸羯南(くがかつなん)は短詩文芸では忘れることができない人。羯南が創刊した新聞「日本」で、記者の井上剣花坊が主筆から新しい川柳を起こしてはと言われ1903年に川柳欄が設けられた。羯南が川柳をスタートラインに着かせてくれた。紙面を通じて正岡子規を支援したのも羯南。子規は後年「大恩人は羯南」と言っており、青森県が短詩文芸発展に関わった地として忘れてはならない人物なのだ。

 

 川柳人ではないが、時代に対して流れていく作家もいた。「誰か故郷を想わざる」を作詞した西条八十は、「若鷲(わし)の歌」などの軍歌、終戦後は「青い山脈」を作った。一方、04年の日露戦争開戦から3日後、ロシアのスパイの疑いを掛けられ福岡県内で1人の学生が自刃した。北原白秋の1歳下の詩人中島白雨。これを一つのきっかけに上京した白秋は、八十のように軍部の意向に従わなかった。
 私たちは今後、どのように作品を作ればいいか。
 与謝蕪村の句<菜の花や月は東に日は西に>。当たり前と思われるが、物事を深く考えていないとめったに出合うことがない事象。蕪村の句に触れたくて菜の花畑に行き、身を置いたら感動した。刷り込み的に私の中に名句があったのだが、そういうことがないと何事もなく終わってしまう。
 作句する上で一つの発見が大切と思っている。現代俳句新人賞の<夏シャツの乳房で伸ばす畳み皺>(瀬戸優理子)。ドラマや情念もいいが、もっと身近なものから川柳を作ってはどうか。生活の中から発見して作品化することはとても大事だ。
 佐賀県有田町には有田焼の人間国宝が3人いた。私たち川柳家は一生に一度でいいからいい作品を1個でも作りたいと思う。人間国宝も「100個作る職人ではいけない。私自身の思想が表れた器を作りたい」という。13代酒井田柿右衛門には2人の兄弟弟子がいた。14代柿右衛門が追い求めたのは「余白の美」。書き表さないところに何を持ってくるかに全神経を集中させる。もう1人の井上萬二は「造形の美」、つまり、どこを取っても欠点、染み一つない。
 「川柳は人間陶冶(とうや)の文学」と言ったのは川柳家の麻生路郎。陶冶とは陶器の「陶」と、冶金(やきん)の「冶」。つまり、優れて人間が最高の部類や域に達すること。陶芸は人間性が作品に表れるが、川柳にも言える。陶芸のように誰でも作れない私だけの川柳もある。みなさんの技術は高いレベルに達している。東奥日報の柳壇を見てそう思った。
 <夏シャツの―>を選者が選ぶかは分からないが、そういうささやかな暮らしの中に、私たちの川柳の対象が転がっているのかもしれない。<菜の花や―>は、万人が見ているが、それに感動するかしないかは私たち次第。感動は研ぎ澄まされた蓄積がなくてはできない。
 俳人の金子兜太と話す機会があり、現代に残る三つの俳句を教えていただいた。松尾芭蕉の<古池や蛙飛びこむ水の音>。海外で「虫の声」などはノイズとされるが、日本では「あはれみ」の感性。<柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺>は、胸を患った子規が鐘の音を耳ではなく、肺で聞いたという。身体で聞いた句。三つ目は中村草田男の<降る雪や明治は遠くなりにけり>だ。
 <降る雪や>は句会の中で作られたが、実は高浜虚子は初めに取らなかった。「今日の草田男の句は良かったですね」と言われて見直され、いまも兜太の名句に入っている。きちんとしたものが一回落ちても再評価されると日の目を見るのは結構ある。そういう役割を担っている一つが新聞。何気ない句でも紙面で取り上げ、応援してくれれば脚光を浴びるのだ。
 兜太が挙げた3句は作り事ではない「生き物感覚の句」。鐘の音を耳でなく肺で聞く。着物でなく金ボタンの子どもたちを見て、明治は遠くになったと感じる。そう言えば30年間で平成を経て昭和は遠くなったなという感じ。私たちも常に生き物感覚をそばに置いておくべきだ。
 選者を務める西日本新聞「ニュース川柳」には毎日、読者から300句もの投句が届く。ある月の秀句に<1本の釘で留まっている平和>を推した。1本の釘とは憲法9条。9条がなければ自衛隊は戦争が起きている地域に出しても問題ない。アメリカはいつもそれを要求する。
 川柳を作る時に世の動きを見て考えなければならない。戦前の反戦川柳作家鶴彬(つるあきら)は、白雨のように自分の思いを普通に書いたにもかかわらず獄中死した。川柳は俳句や短歌にはない財産を持っている。時代に対する批判や思いを、やはり川柳人は持っていなければいけない。川柳が社会と人間を詠うというなら、川柳人の礎を社会に置くことをぜひ忘れないでほしい。