あれはいつ頃のことだっただろうか。

 私がなにげなく使った言葉に対して、読者からお叱(しか)りの手紙をいただいたことがある。

 風格のある和紙の封筒に、筆書きの文字がいかにも小うるさそうな感じ。

 案の定、右上がりの達筆で延々十数枚にわたって叱責(しっせき)の言葉がつづられていた。要点だけをつまんでいえば、私の言葉遣いがまちがっているというご指摘だ。

〈あなたの話をラジオできいたが、そのなかで「重箱の隅をつっつくような」という表現があった。これは大きなまちがいである。正しくは「重箱の隅をほじくるような」と言うべきだ。文章を書くことを職業とする作家として、恥ずかしいかぎりである。今後はよく反省して正しい日本語を使うよう努力されたい〉
 まあ、こんな趣旨のお便りであった。

 私が「重箱の隅をつっつく」と言ったのはたしかに軽率だったと思う。しかし、言葉は生きものである。最近は大学の先生でも現役のジャーナリストでも、「重箱の隅をつっつくような」という表現をする人が少なくない。そんな風潮のなかで、私が「つっつく」と言ったのは、当世ふうの軽味を計算してのことだったのだ。

 さらに、私とて言い分がないわけではない。私の父親は国語と漢文の教師だった。こと言葉遣いに関しては、かなりうるさく言われて育ったつもりである。

 もし、本格的に古風な言葉遣いにこだわるならば、「重箱の隅をほじくるような」だけでは不十分だろう。

「重箱の隅を楊枝の先でほじくるような」と、そこまでいうべきではあるまいか。

 威丈高(いたけだか)なお叱りの手紙に対して、反論しようかとも思ったが、やめた。そんな論争そのものが「重箱の隅」的なやり取りに感じられてきたのだ。

〈老人が、どっこいしょ、と言って立ち上がった〉
 と書いて叱られたこともある。このときも筆書きの手紙だった。

「どっこいしょ、というのは坐(すわ)るときの言葉である。立ち上がるときには、ヨッコラショと言うべきだ」

 というのが、そのお手紙の論旨だった。なるほど、と思ったものの、どうも釈然としない。ふつう人はそれほど厳密に坐る言葉と立ち上がる言葉を区別して使っているのだろうか。

 気になって、ある日の午後、ゲートボールをなさっている高齢者のかたがたを長時間ずっと観察してみたが、やはり明確な区別はなさそうだった。

 こういう親切なお手紙を、今でもときおりいただくことがある。むっとするときもあれば、頭をかいて反省することもあり、思わず笑ってしまうときもある。読者からのお手紙にいちいち返事は書かないが、できる限り丁寧に読むことにしてきたつもりだ。

 今回のエッセイの題名を見て、すぐに『黒の舟唄』を思い浮かべる読者は、たぶん六十歳以上の世代のかたがたではあるまいか。 (作家)