ある大学の創作コースの学生さんたちの講座に呼ばれて、話をしにでかけた。

 将来、ものを書く仕事を志している若者たちのクラスである。放送、出版、ジャーナリスト、作家などの卵であるからこちらもいささか緊張気味。

 一時間ほど喋(しゃべ)ったあと、質疑応答にはいった。むずかしい質問もあり、素直なやさしい問いかけもある。

「自然主義的描写と現象学的描写のちがいについて、実例をあげて説明してください」

 などという厄介な質問もあって、私が立ち往生するシーンもあった。

 いかにも頭のよさそうな女子学生が、こんな質問をぶつけてくる。

「五木さんは、な(丶)ん(丶)で(丶)小説をお書きになるんですか」

 なぜ書くのか。これは作家にとっては究極の問いかけである。自己救済の衝動なのか。それとも使命感なのか。はたまた文章表現の実験なのか。それとも職業としての選択なのか。うーむ、としばし沈黙。

「むずかしい問題ですね」

 と、ひと呼吸おいて、おもむろに慎重に言葉を選んで喋りはじめる。

「それはですね、えー、最初にまず表現への願望というか、書かずにはいられない業(ごう)といいますか、そういうものがあって--」

 脂汗を流しながら説明しようとするが、うまくいかない。

「生活のためです」

 とか、偽悪的な捨てゼリフで決めるという手もあろうが、私には無理である。

 立ち往生して口ごもっている私に対して質問者の女子学生は、申し訳なさそうに小声で言った。

「あの--、な(丶)ん(丶)で(丶)、というのは、書くときに鉛筆か、万年筆か、それともパソコンをお使いになるのか、という意味ですけど」

「は?」

 要するに、相手が創作コースの学生さんということで、私のほうが意識過剰になっただけの話であった。

 なんで書くのか。鉛筆か、万年筆か、パソコンか、という素朴な質問だったのだ。

 それを「な(丶)ぜ(丶)書くのか」と勝手に深読みして深刻な説明をはじめようとした私は、さぞ滑稽(こっけい)な作家に見えたにちがいない。

 最近、はやらなくなった言葉の一つに「深刻」という表現がある。「つきつめる」とか「本質を追求する」というスタイルも当世風ではない。なにごとも軽やかに、さりげなく扱うのが今どきの傾向なのらしい。

 かつて社会的抗議のための文学というのがあった。己の罪を告白する良心の文学もあった。宗教的な回心(かいしん)を描く小説もあり、時代を諷刺(ふうし)する物語もあった。

 「なぜ書くのか」を自己に問いかけながらものを書く作業は、今は古いのだろうか。そのことを考えながら、キャンパスから帰ってきた。