外国旅行から帰ってきて、なんとなくほっとすることが少なからずある。

 たとえばチップのわずらわしさ。

 慣れている人にはそれほどでもないだろうが、その都度なにがしかのチップを加算するのは、すこぶる面倒なのだ。

 私たちの国にも“心付け”という習慣はある。しかし日常あらゆる場面でそれが必要となると、いささか気が重い。チップの必要のない国に帰ってきて、ほっとするというのが正直なところだろう。

 もう一つ、私が苦手なものに、買い物をするときの値段の交渉がある。世界には定価というものが、あってなきがごとき国も少なくないのだ。

 買い手と売り手が、最初にそれぞれの希望の価格を提示する。そして時間をかけ弁舌をつくして両者のへだたりを埋めていく。ちょうどいい所で合意に達して、めでたく売買が成立する。

 言葉が不自由ということもあろうが、生来、短気な私には、その外交的折衝がわずらわしくてならなかった。最初の値段をきいて、買う、とか、いらない、とか即座に決めてしまうのだ。

 以前、イランの古都イスファハンで、古物商の店先に美しい涙壺(なみだつぼ)をみつけた。店主の老人に値段をきくと、べらぼうに高い。

「残念」とつぶやいて店を出ると、現地ガイドの人からこんなふうにたしなめられた。

「この国では商売は単なるビジネスではありません。あの店の主人にとっては、それは一つの生き甲斐(がい)なのです。まず店にはいって、欲しい物のほうへまっすぐに行くべきではない。なにげなくあちこち眺めて、ふと気づいたようにお目当ての品を手にとる。これはどういう品ですか、と質問してください。お店の主人は、古代ペルシャのガラス器について滔々(とうとう)と語りだすでしょう。そのとき彼は学者になる。そして、これは売りたくない、という顔で品物を引っこめる。そのときの店主は、俳優であり役者として演じているのです。あなたが高いと言えば、彼は老練なビジネスマンとなる。途中で紅茶がでてきます。友人として和やかに語り合い、ふたたび議論がはじまるでしょう。老店主は政治家のように雄弁に語り、詩人のように涙壺の由来について述べる。そこで二度目のお茶がでて、次第に値段が折り合ってくる。そして何時間かの時間が流れ、やがて双方が合意に達する時がきます。取り引きを終えたあと、老店主は、きょうはじつに良い日だった、と神に感謝しつつあなたを見送るのです。向こうも満足する。あなたもお目当ての品を努力して手に入れた歓びにひたることでしょう。商売は単なる取り引き(ディール)ではありません。あなたは今日、貴重なチャンスを逸したのです。残念でしたね」

 なるほど。

 飛行機の時間ばかりを気にして、そそくさと土産の品を購入しようとした私が間違っていたのだ。せっかちな国民性をつくづく反省させられたものだった。しかし、なあ。