故・井上ひさしさんとは、直木賞の選考会の帰りに、よく二人でコーヒーを飲んだものだった。

 文学賞の選考というものは、はたで思うほど気楽なものではない。候補となった作家の将来を左右する可能性もあるのだ。おのずと緊張するし、終わった後の疲労感も大きい。

「一杯やりませんか」

 と、若い作家たちから誘われても、
「いや、今夜はちょっと」

 と、手をふって先に失礼することが多かった。

 そんなとき、先に座を立つのは井上さんだった。よくは知らないが、どうやら下戸(げこ)なのだろうと思っていた。

 なんとなく自然に会場を出るのが一緒になる。

「どこかでコーヒーでも飲もうか」

 と、どちらからともなく誘いあって、なじみの喫茶店にでかけた。当世ふうのカフェではなく、古風な珈琲(コーヒー)店である。

「煙草(たばこ)、吸っていいですか」

 と、井上さんは遠慮がちにきく。

「どうぞ、どうぞ、ぼくは副流煙が好物でね」

「え、嘘(うそ)でしょう」

「いや、本当。若い頃は煙草吸ってたから、人の煙を吸うと懐かしくて」

 やがて運ばれてきたコーヒーを飲みながら、たあいのない雑談がはじまる。

「五木さんは、ロック座派ですか。それともフランス座のほう?」

「ぼくは池袋のフランス座」

「あそこには斉藤ナニガシという良い踊り手がいましたよね」

「おぼえてる。ちょっと細身の癖のある子だった」

 などとストリップ劇場の思い出話から、話題は当日の選考会の結果に移るのが常だった。

「正直いって、ぼくは今回の選考結果には今ひとつ釈然としないところもあるんだけど」

 と、井上さん。

「でも、多勢に無勢だしなあ」

「そういう顔してたよね」

「でも--」

 と、井上さんは体を乗りだして、惜しくも受賞を逸した作品について滔々(とうとう)と語りはじめるのだ。井上さんは舞台もやる人なので、作品に対しては徹底的に理詰めな批評をする。私は直観型なので、井上さんの分析を聞いて目からウロコの刺戟(しげき)をうけることが多かった。

 直木賞の選考会は一年に二回ある。芥川賞、直木賞とも年に一回でいいのでは、という意見もないではない。しかし私にとっては同業の作家たちと議論をしたり、未知の新人の作品に触れたりできる得難い機会だった。

 井上さんと私が、こんなふうにして語りあうことのできる年月がどれほど続いただろう。たぶん、二人が重なって選者をつとめたのは、二十七年間ほどの歳月ではあるまいか。

 最後に井上さんと会ったとき、井上さんはどこか少し疲れたような顔をしていた。別れぎわに、ふと立ちどまって、こんなことを言った。

「五木さんは、片脚で立って靴下をはけますか?」

「え、どういうこと?」

「ぼく、最近、どうしても片脚立ちで靴下がはけないんだよね」

 それに対して私がどう返事したかはおぼえていない。

 だが、いつも座って靴下をはくたびにその時のことを思い出すのだ。