昨年の夏はよく旅をした。もっぱら国内の講演旅行である。

 同業の仲間たちのなかには、講演を嫌う作家も少なくない。執筆者は文章で勝負すべきだ、人前で喋(しゃべ)ったりすべきではない、という意見である。

 しかし、私は昔からずっと一貫してちがう考えを持っていた。

 いま古典として大切にされている作品は、最初から文字として書かれたものだけではない。いや、むしろ言葉として声で伝えられたものを文章にして記録されたものが多々ある。

 古典中の古典、万葉集にしてもそうではないか。万葉仮名(がな)というのは、当時のニューメディアだ。六世紀から八世紀にかけて用いられ、真仮名(まがな)と呼ばれた。もともと、万葉の名歌、秀歌は、独特のリズムとメロディーをもって朗々と歌いあげられたのである。

 ブッダもイエス・キリストも、一冊の本も書いてはいない。彼らの語った言葉や言行が、記憶され、のちに万巻の経典となり聖書となる。

 暁烏敏(あけがらすはや)の師、清沢満之(まんし)は、座右の三冊として『歎異抄(たんにしょう)』『阿含経(あごんきょう)』『エピクテータス語録』をあげたという。それぞれ直弟子たちの記憶にもとづいて編まれたものだ。

 かつて武士の必読書だった『葉隠(はがくれ)』は、今でも読者が少なくない。この書はもともと『葉隠聞書(ききがき)』として知られていた。『聞書』というのは、文字どおり談話をまとめたものだからである。

 鍋島藩士山本常朝(つねとも)の話を田代陣基(つらもと)という後輩が筆録し、十一巻にまとめたものだ。俗に『鍋島論語』などと呼ばれた。

 経典が「如是我聞(にょぜがもん)」(わたしはこのように聞きました)ではじまるのも、『論語』が「子のたまわく」(孔子先生は、こうおっしゃいました)と書きだされるのもそうだ。

 もしいま親鸞が生きていたなら、と空想する。彼は新聞や雑誌のインタビューや対談には登場しただろうが、たぶんテレビには出演しなかっただろう。蓮如は、すすんでテレビに登場したのではあるまいか。

 ドストエフスキーは、講演や自作朗読を好んで行った。口述速記の作品もある。

 哲学や経済学の古典とされているものも、大学や集会での講義・報告などが少なくない。

 以前、中国の広州を訪れたとき、新華書店で平積みになっているマンガ本を見た。南宗禅の第六祖、慧能(えのう)禅師の『六祖(ろくそ)壇経(だんきょう)』をマンガ化した本らしい。数千万部以上も売れているとポップにはあったが、白髪三千丈式にしてもすごいものである。

 『六祖壇経』は慧能が行った公開講演をまとめたものだ。彼の話を聞こうと中国各地から人びとが集まってきたらしい。

 そんな古人を引き合いに出すまでもなく、説法と問答は表現の正道だろう。

 昨年の夏の講演で印象的だったのは、鹿児島の海音寺潮五郎(ちょうごろう)記念館主催の集まりだった。海音寺さんの生地、伊佐市(旧大口村)での講演のあと、地元のかたからいろんなことを教わった。講演というのは、いつもそうだ。語ることより学ぶことのほうが、はるかに多い。故・松原泰道(たいどう)師は、亡くなられる数日前まで講話に出かけられていたという。この国に仏教はそんなふうにして生き続けてきたのである。