ベストセラーというと、なんとなく戦後の出版界の現象のようなイメージがある。

 しかし明治五年から四年九ヵ月にわたって刊行された福沢諭吉の『学問のすゝめ』は、通算三四〇万部に達したというから凄(すご)い。

 学ぶこと、勉強することに対する人びとの思いは、いまも地熱のように私たちの胸の奥に胎動している。日本人は本質的に勉強好きな国民なのだ。

 私も恥ずかしながらその一人である。不勉強であるくせに、昔からどこかに勉強することへの憧れがあった。

 中年を過ぎて京都のある大学の聴講生となったのも、そのせいだろう。職業作家としての仕事を中断して、その時はさまざまに批判されたものだった。親しい編集者から、こんな厳しい忠告を受けたことは今でも忘れることができない。

「流行作家は流行歌手と同じなんだよ。しばらく休んで、もどってきても坐(すわ)る椅子はないと覚悟することだね」

 たしかにそうだろうな、と私も納得するところがあった。しかし、本気で勉強してみたい、という気持ちを変えることはできなかった。なんのために、ということではなく、ただひたすら教室で授業を受けてみたかったのである。

「そのときはもう一度、新人賞に応募しますから」

 と言ったのは、つよがりでもなかった。本当にそうしようと思ったのだ。

 自分の子供のような若い学生たちと共に教室に坐って授業を受けるのは、じつに充実した時間だった。

 千葉(ちば)乗隆(じょうりゅう)先生という教授の授業を私はとくに熱心に聴いた。「車借(しゃしゃく)」「馬借(ばしゃく)」などという風変わりな言葉にはじめて接したのも、「自由の検断(けんだん)」について教えられたのも、その授業のなかでだった。

 教材としてくばられた『十牛図(じゅうぎゅうず)』のイラストもおもしろかった。

 木造の教室にさしこんでくる午後の光。その中に舞うチョークの粉。

 私がそこで学んだものは、学問の初歩中の初歩に過ぎない。

 しかし、それは私の人生のなかでの最良の数年間だったと今でも思う。人はだれでも学ぶこと、教わることへの憧れを心に抱いているものなのだ。

 千葉先生もすでに故人である。当時、学んだことも、ほとんど忘れてしまった。だが、あの数年間の時間は、いまも私の中に息づいている。あれは至福の季節だった。

「機会があれば、もう一度、学校に通ってみたい」

 と、言ったら笑われた。

「もう、そんな時間はないんじゃないですか」

 たしかにそうだ。だが、高齢者にも学ぶ権利はあるだろう。

 福沢諭吉がもしいま生きていたなら、『再・学問のすゝめ』という本を書いたかもしれない、などと勝手なことを考えている。