私の父親は学校の教師だったが、明治生まれで、剣道の有段者だった。

 母に何か文句を言われたりすると、

「オレは明治の男だからな」

 と、居直る癖があった。

 明治の男、ということをどこか誇りに思っているところがあったのだろう。

 たしかに明治という時代には、存在感があったような気がする。

 明治維新とか、日清、日露の戦争とか、明治大帝とか、迫力のあるイメージだ。漱石(そうせき)、鴎外(おうがい)、露伴(ろはん)など、明治の文豪というのもえらく迫力がある。

 国民と国家が一体となって坂の上の雲をめざした勇壮な時代、という印象がつよい。ある意味で男性的な世の中、といった感じである。

「明治の男だからって、なによ」

 と、母親は陰で笑っていたが、父親は何かというと「明治の男」を強調していた。もし父親が大正生まれだったらどうだろう。

「オレは大正の男だぞ」

 では、なんとなく様にならない。大正という年号も控え目だし、大正ロマンなどという言葉も男性的な迫力に欠けるからだ。

 では、昭和はどうか。

「オレは昭和の男だぞ」

 と見得(みえ)を切っても、

「戦前ですか、それとも戦後?」

 と、きき返されそうだ。敗戦を境に、時代のイメージが分裂しているからである。

 さて、問題は平成である。まもなく幕を閉じる平成だが、ふり返ってみるとなぜかきわめて印象が薄い。黒でも赤でも黄色でもなく、あえて言うなら水色といった感じなのだ。

 明治人、という言葉にはどこか骨太の気配がある。それとくらべると、平成人というのはスマートだが、なんとなく薄味の感じがあるのだ。

 こういうことを書くと、反撥(はんぱつ)するかたがたも多いことだろう。世代によって時代に対する見方はそれぞれちがうのだから。

 いずれにせよ、まもなく平成の季節は終わる。新しい時代は、どんな色になるのだろうか。

 昭和も、平成も、遥かな遠景となって記憶のかなたに過ぎ去っていく。

 羽生結弦、大谷翔平、藤井聡太、など平成のスターたちには、共通の雰囲気があるような気がする。ジェントルで、思慮深く、好感のもてる若者ばかりだ。まかりまちがっても、

「オレは平成の男だ」

 などという時代錯誤的なセリフは吐かないはずだ。

 年号が変わったところで時代が変わるわけではない、という意見もあるだろう。しかし「名は体(たい)をあらわす」という。新しい衣(ころも)を着れば、その人の感情や行動も変わる。

 明治・大正・昭和・平成と、一時代おきに強烈な時代と控え目な時代が交代で続いてきた。

 やがて始まる新しい時代は、ひょっとすると強烈な激動の時代になるかもしれない、と理由のない予感をおぼえつつ、かたずを呑(の)んで見守っている。