「灰燼(かいじん)に帰した市街地」「焼け焦げた市営バス」。77年前、米軍爆撃機B29の焼夷弾(しょういだん)投下によって、一面焼け野原になった青森市内の惨状を伝える写真が並ぶ。

 中央市民センターで開かれている青森空襲を記録する会の「青森空襲展」。何度も目にしてきたはずの古いモノクロ写真が、遠い昔のこととは思えない切実さで迫ってくる。「廃虚と化した州庁舎」「集合住宅は黒焦げに」。ロシア軍のミサイル攻撃を受けたウクライナの街の惨劇を伝える最近の記事や写真と、二重写しに見えるからだ。無辜(むこ)の市民を巻き添えにする戦争の理不尽さに昔も今もない。

 古川、新町、長島…。現在ビルが立ち並ぶ県庁所在地の中心部の一帯は、一夜にして焦土と化した。第一復員省(旧陸軍省)の記録で1018人とされる空襲の犠牲者のうち、半数近い身元が今なお分かっていない。当時の知事らが防空法を根拠に、防火のため郊外への避難を禁じたことが犠牲者を増やしたともされる。

 一人一人に生身の人間としての人生と暮らしがあったのだ。「記録する会」は身元不明者の情報提供を呼び掛けている。

 空襲を受けたのは1945年のきょう28日。日本政府はこの日、日本の降伏を求めたポツダム宣言を「黙殺」し「戦争完遂に邁進(まいしん)するのみ」(半藤一利「昭和史1926-1945」)とした。敗戦はこのわずか18日後だった。