• 2016年11月20日(日)

第69回東奥賞

 東奥日報社が文化、芸術、産業など各分野で傑出した業績を上げ、本県の発展に貢献した個人・団体に贈る第69回東奥賞が決まった。今年はアテネ、北京、ロンドンに続き、リオデジャネイロ五輪のレスリング女子で4連覇を達成、県人として初の国民栄誉賞に輝いた伊調馨(かおり)さん(32歳、八戸市出身)に東奥賞特別大賞を贈る。伊調さんはこれまでに、東奥賞(2004年)、東奥スポーツ賞特別顕彰(08年)、東奥賞特別賞(12年)を受けている。またリオ五輪のレスリング男子・グレコローマンで銀メダルを獲得した太田忍さん(22歳、五戸町出身)、革新的な小型ビジネスジェット機「ホンダジェット」を開発した藤野道格(みちまさ)さん(56歳、弘前高-東大出)、水田を巨大なキャンバスに見立て、色の違う稲で絵を描く「田舎館村『田んぼアート』」、国内でただ一人の漆掻(か)き用具鍛冶師として全国の職人に道具を提供し続ける中畑文利さん(73歳、田子町)に東奥賞を贈る。贈呈式は12月3日午前11時から、青森市の青森国際ホテルで行う。

▼【特別大賞】五輪レスリング4連覇 伊調馨さん(八戸出身)/重ねた努力 未到の偉業
▼リオ五輪レスリング銀メダル 太田忍さん(五戸出身)/急成長 原点は故郷
▼ホンダジェット開発 藤野道格さん(弘前育ち)/革命的な主翼上エンジン
▼漆掻き用具鍛冶師 中畑文利さん(田子)/熟練の技 漆文化支える
▼田舎館村むらおこし推進協議会「田んぼアート」/稲の芸術 全国から観覧者

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リオデジャネイロ五輪女子58キロ級で獲得した金メダルにキスし、右手で連覇回数の「4」を示す伊調馨さん=2016年8月

写真 今後も伸び伸びと/幼少期から指導 澤内和興さん

 郷土の大変栄誉ある賞に、馨はとても喜んでいることだろう。これまでの頑張りがあらためて認められたと思っている。

 「五輪4連覇に最も近い存在」-。大会前の周囲の期待が、本人にとってとてつもない重圧になっていた。事実、リオでは緊張もあって、動きは良くなかった。その中で偉業を成し遂げられたのは、日ごろの努力があったから。勝つにはどうしたらいいのか、四六時中悩み抜きながら、ひたむきに貪欲に精進する姿には頭が下がる。

 出会ってから30年。恥ずかしがり屋で人見知りだった少女が、たくさんの人前で物おじせず話せるようになり、周りを見渡せる余裕も出てきた。先日、国民栄誉賞を受賞したけれど、萎縮することなく、伸び伸びと生きてほしい。現役続行か、指導者になるのか。どんな道を歩むにせよ、背中を押し、支え続けたい。

特別大賞 五輪レスリング4連覇 伊調馨さん(八戸出身)/重ねた努力 未到の偉業

 「金メダルが取れたのは自分の力ではない。応援してくれた方々、みなさんが力を与えてくれたから」。リオデジャネイロ五輪女子レスリングで、前人未到の大会4連覇を成し遂げた伊調馨さんは試合後、周りに感謝しながら静かに喜びをかみしめた。

 リオではそれまでの主戦場だった63キロ級から階級を変え、本来の体重に近い58キロ級に挑んだ。だが楽な戦いではなかった。3回戦は先にポイントを奪われる苦しい展開。決勝では2年前の世界選手権でテクニカルフォール勝ちした相手に追い込まれた。しかし土壇場、相手がタックルを仕掛けたところを必死につぶし、後ろに回りこんで残り3秒で逆転の2ポイント。劇的な勝利を飾った。

 「点数をつけるなら30点。もっと良い試合をしたかった、という申し訳ない気持ちでいっぱい」。結果よりも内容を重視する求道者は、会見で厳しく自己採点しながら、過去の五輪3大会の金メダルと比べて「いつもより重みを感じる」と勝利の余韻に浸った。

 レスリングとの出合いは3歳のころにさかのぼる。三つ上の姉千春さん、七つ上の兄寿行さんが練習する傍ら、最初はマットの上で戯れるだけだった。勝つ喜びを味わい一歩一歩、確かな成長を遂げていく。長者中を卒業後、愛知県の名門・中京女子大付属高校、そして中京女子大学へ進む。誰よりも負けず嫌いな少女は誰よりも努力し、国内トップレスラーへと上り詰めた。

 30年にわたる競技人生には、起伏に富んだドラマがある。千春さんと「姉妹で金メダル」を目指してアテネ、北京五輪に挑んだ。その後は独り立ちして環境を変え、男子選手との練習に明け暮れる日々を送った。年を重ねて体力は少しずつ衰え、選手生命を脅かす大きなけがも負った。さらに2年前には最愛の母トシさん(享年65)を亡くした。それでも不屈の闘志で若き挑戦者たちを退け、女王の座に君臨し続けた。

 五輪4連覇という功績が認められ、10月には本県出身者として初の国民栄誉賞に輝いた。今後については「選手として続けるか、それとも指導する側になるのかは分からない。じっくり考えたい」と明言を避けている。4年後は東京五輪。国民的ヒロインはどんな歩みを見せていくのか。これからも目が離せない。


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リオデジャネイロ五輪男子グレコローマン59キロ級3回戦で、ノルウェー選手(左)と対戦する太田忍さん。強豪を次々と撃破し銀メダルに輝いた=2016年8月

写真 東京五輪で「金」期待/五戸町長 三浦正名さん

 太田忍さんは五戸町民初の五輪出場選手で、初出場で銀メダル獲得という快挙を成し遂げた。町の誇りである太田さんの東奥賞受賞をとてもうれしく思う。

 銀メダルを獲得できたのは、本人の努力はもちろんのこと、中学3年生まで指導したお父さん(陽一さん)をはじめ家族の支えがあったからこそだと思う。

 太田さんの偉業が町民に及ぼした影響は非常に大きい。スポーツに励む子どもたちには「自分も努力すれば五輪でメダルをとることができる」との夢や希望を与えてくれた。町内での応援や祝賀パレードなどを通じて、町民が心を一つにすることもできた。町長として大変感謝している。

 まだ若い太田さんは、これから円熟期を迎えるだろう。「世界一の練習をして、世界一の選手になりたい」と発言しているので、東京五輪では金メダル獲得を期待したい。

リオ五輪レスリング銀メダル 太田忍さん(五戸出身)/急成長 原点は故郷

 それまで世界選手権の出場実績はなく、前評判は決して高くなかった。しかし、急成長を遂げて初めて臨んだリオ五輪で強豪を次々撃破、銀メダルを獲得した。郷里で培ったスピードと負けん気の強さを遺憾なく発揮し、一躍世界のひのき舞台に立った。

 五輪の初戦はロンドン五輪55キロ級王者のイラン選手と対戦し、0-4の劣勢をひっくり返して5-4の逆転勝ち。2回戦は前年世界選手権3位のカザフスタン選手を6-0と圧倒、波に乗って快進撃を見せた。

 しかし、最後に待ち受けていた壁は厚かった。決勝では前年世界選手権王者のボレロモリナ(キューバ)のパワーを前に苦戦。寝技の攻防からマットにたたきつけられて6点を先取され、最後は0-8でテクニカルフォール負け。

 力は出し切った。最後まで攻める姿勢を貫いた。それでも頂点には届かなかった。「悔しい。まだまだという気持ち」。涙が頬を伝った。だが、レスリング日本男子勢として16大会連続となるメダル獲得は、大きく胸を張れる結果だった。

 原点は故郷で重ねた厳しい練習の日々だった。小学1年のとき、父陽一さんに連れられて初めてレスリング道場に。自宅や道場で、盆正月も休まず汗を流した。基本の繰り返しで築いた堅い基礎の上に、みるみると力が付いた。3年生で初めて全国を制し、小学時代は4連覇。倉石中の2、3年時も日本一に輝いた。

 さらなる高みを目指して山口・柳井学園高へ進学し、2、3年で全国優勝。日体大へと進み、同大4年時の2015年、全日本選手権を制した後、今年3月のアジア予選で2位入賞。幼いころからの夢だった五輪出場を実現させた。

 素早い身のこなしが身上。「忍」という名前にもちなみ、海外で「忍者レスラー」の異名を取る。一戦一戦強さを増している若手の急成長株が目指すのは無論、2020年東京五輪の金メダルだ。

 「(リオの)決勝で大きな失点につながったと思われるのが、グラウンドでのディフェンス。スタンディングでの攻防には自信がついた。双方の技術を上げて世界のトップに出たい」-。華やかな舞台から一転、黙々とさらなる鍛錬の日々を送る太田さんの胸には、父の言葉が深く刻み込まれている。「地道に勝る近道なし」


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2005年7月、米国の航空ショーでホンダジェットを初公開する藤野さん

写真 一人で達成 奇跡的/東大大学院工学系研究科航空宇宙工学専攻教授 鈴木真二さん

 藤野道格さんはホンダジェットの開発を指揮し、1997年のコンセプトスケッチから研究開発を経て、2016年には量産に成功しました。こうした激務のなか、主翼上面エンジン配置という画期的なアイデアを緻密な解析と実験により実現したことが評価され、母校の東大より博士号も取得しています。

 13年に藤野さんが社長を務める米国のホンダエアクラフトカンパニーを訪ねたことがあります。そこは藤野さんが独自の考えにより航空機開発を行う試験設備を完備した夢のような研究所でした。1900年代半ばまでであればともかく、現代において、航空機の設計、研究開発から、事業化までを一人で成し遂げるのは奇跡に近いことです。

 航空分野の世界的な数々の賞を受賞されている藤野さんも、故郷より「東奥賞」を受賞されることは何よりの栄誉なことと思います。おめでとうございます。

ホンダジェット開発 藤野道格さん(弘前育ち)/革命的な主翼上エンジン

 小型ビジネスジェット機「ホンダジェット」は、空飛ぶスポーツカーとも呼ばれる。太く突き出たくちばし、額の張った操縦席、何よりエンジンが主翼上面にある。開発した藤野道格(みちまさ)さんは日本人初の「エアクラフト・デザイン・アワード」など世界的賞を多数受けたが、単にクールな外形ではなく、革命的で、かつ徹底的に機能を追求した設計が絶賛されたのだ。

 体高の低い小型機はエンジンを主翼に下げられず、普通に後部横に置けば重いエンジンを支える梁(はり)が胴体を貫き、客室が狭くなってしまう。騒音も激しい。

 藤野さんは、空気抵抗が増して駄目だという定説を覆し、エンジンを主翼上に置くことで圧倒的に広く、静かな機内を実現。しかも速度、燃費が落ちるどころか15%以上も向上した。

 思いつきなどではない。入社3年目の1986年にホンダがジェット機開発に着手し、航空機開発の先進地アメリカに派遣されて開発を主導してきた藤野さんは、膨大な力学的検討、計算、実験を重ね、翼や胴体との位置関係によっては空気抵抗を減少し得ることを発見。97年のある夜、エンジンが主翼上にある革命的な機体が像を結んだ。

 不況などで幾度も直面した事業化中止も、藤野さんの熱意が覆した。

 2012年、ついに生産開始。連合国軍総司令部(GHQ)に一時開発を禁止され、後塵(こうじん)を拝してきた日本の航空機産業界の悲願達成の瞬間でもあった。昨年12月に米連邦航空局の発行した型式証明を、藤野さんは「汗と涙の結晶」と表現したが、それは30年間にも及ぶ闘いへの感慨である。

 東京都生まれ。父道生(みちお)さん(故人)が弘大教員になり、小学1年から東大進学前までを弘前市で過ごした。「小学6年ごろ、図工の授業で藤野君だけが飛び抜けてすごい船を作った。滑車を活用して長いゴムを使えるようにし、動力を長時間得る工夫をした船だった」。弘大付属小から弘高まで同級生の奥田光崇さん(56)=仙台市立病院副院長=が藤野さんのメカ好き、工学の才能を証言する。

 付属中に上がると、部活に加え市内の卓球教室に通うほど卓球に打ち込む。それが、工夫と忍耐の限りを尽くす藤野流を育んだ。

 現在、製造・販売を担うホンダエアクラフトカンパニー(米ノースカロライナ州)の社長兼CEOとして、殺到する注文に応える増産体制の構築を進めている。在外者の「東奥賞」受賞は初めて。


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槌を振るい真っ赤に焼いた鉄を鍛える中畑文利さん。製作する漆掻き用具は全国の職人が愛用する

写真 うれしく、誇らしい/田子町長 山本晴美さん

 ご病気になってから体だけでなく、気持ちの面でもつらい日々が続いたと聞いていただけに、このたびの受賞はとてもうれしく、誇らしく感じます。

 中畑さんの活動については、これまで町として支援する機会をつくれないできました。しかし昨年、後継者育成のため国の事業を活用し、地域おこし協力隊員として採用した弘前市の男性に、技術の習得に励んでいただいているところです。日本の漆文化を支える役割を担うためにも、今後も町としてできる範囲で、中畑さんの活動をサポートしていきます。

 田子町はもともと良質の漆の産地でありました。町や地域の産業として、山間部近くの耕作放棄地を活用した漆の栽培などには可能性を感じています。中畑さんの受賞を機に、近隣自治体や岩手県などを巻き込んだ大きな流れになっていけばと期待しています。

漆掻き用具鍛冶師 中畑文利さん(田子)/熟練の技 漆文化支える

 中畑文利さんが製作する漆掻(か)き用具は、高品質の漆生産で有名な岩手県二戸市浄法寺町をはじめ、日本中の漆掻き職人が愛用する。中畑さんはその鍛冶技術で、日本の漆文化を支える唯一無二、代わりがいない存在だ。

 7人きょうだいの長男。中畑さんと同様に漆掻き用具製作の国選定保存技術保持者だった父・長次郎さん=故人=を師匠に、中学時代に修業を始める。「父には教えてもらったことがない。見て覚えるのが基本だった」と振り返る。

 中畑さんが作る漆掻き用具には、漆の木の皮をむく「カマ」、木の傷から出る樹液をすくい取る「ヘラ」などさまざまあるが、中でも最も重要なのが木に傷を付ける「カンナ」だ。刃は二股に分かれ、その一方は彫刻刀のような独特な形。作るには中畑さんの熟練した技が必要だ。

 「カンナは掻き子(漆掻き職人)ごとに刃の形などに好みがある。漆の木が若いのか、年数がたったものなのかでも刃は微妙に異なる。掻き子の意見、注文を聞き、微調整を繰り返す」。顧客と顔を合わせ、要望に真摯(しんし)に向き合う。そうして作り上げられた漆掻き用具は掻き子の「手」となり、愛着を持って使ってもらえるという。

 8年前から骨髄性白血病と闘っている。緑内障で入院中の血液検査で病気が分かった。「自分がいなくなれば、漆掻き用具がなくなる」という思いが頭をもたげたころだった。

 抗がん剤治療を受け、体調と相談しながら仕事をこなす日々が続いた。昨年からようやく体調は回復したが、盛岡市への毎月の通院は欠かさない。

 闘病生活を支えてくれたのは、今年で結婚40年目を迎えた妻和子さん(63)。鍛冶の仕事はずっと二人三脚だった。中畑さんと和子さんは息を合わせ槌(つち)を振るい、炉の炭火で真っ赤に焼いた鉄を鍛える。「父と母もそうだった。2人で一人前みたいなもの」と中畑さんは感謝を口にする。

 ここ数年、中畑さんの頭を悩ませているのは後継者づくり。これまでに弟子を2人取ったが、いずれも体調を崩し辞めてしまった。昨年12月、町が地域おこし協力隊員として採用した弘前市の男性を新たな弟子に迎え、技術を伝えている。

 キン、カン、キン、カン-。「鍛冶師は自分に与えられた仕事。体が続く限り続けたい」。中畑さんはきょうも、田子町中心部の住宅街にある小さな工房で、鉄を鍛える槌音を響かせる。


年々、描画はレベルアップし国内外から訪れる多くの観光客を魅了している田んぼアート=2016年7月、第1会場「真田丸より 石田三成と真田昌幸」

写真 素晴らしい出来に感動/鹿児島県南九州市・農事組合法人たべた 田んぼアート実行委員会元会長 大薗秀己さん

 初めて見学した際、(役場庁舎の)天守閣部分から眺めると素晴らしいアートになっていることに感動を覚えた。私自身、いろいろと地域おこしに挑戦してきたが、田舎館村の取り組みはとてもまねができず、大変なことだと感心した。

 われわれも田んぼアートをつくって6年となるが、青森と同じような色に育たない稲もある。田舎館は気候的にもぴったりなんでしょう。

 田んぼアートに取り組む地域は全国に恐らく100近くある。今年、南九州市で開いた田んぼアートサミットでは情報交換の場となる「全国協議会」結成を申し合わせた。全国の先駆けである田舎館村には知恵袋、相談役となってアドバイスをいただきたい。各自それぞれが持っている地域のノウハウに合わせた田んぼアートを作り、皆が農業を再発見することにつなげていければいい。

田舎館村むらおこし推進協議会「田んぼアート」/稲の芸術 全国から観覧者

 稲作りを村おこしに-。田んぼをキャンバスに見立て、異なる色の稲で描いた田舎館村の「田んぼアート」は名勝や偉人、映画・ドラマのワンシーンを描き見る者を圧倒し魅了している。これといった観光資源のなかった県内一小さな村が、工夫を重ね知恵を絞って大きく育てあげた稲の芸術は、年間30万人以上の観覧客を集めるまでに成長した。

 始まりは1993年に開催した「稲作体験ツアー」にさかのぼる。村には弥生時代中期の大規模水田跡・垂柳遺跡(国史跡)がある。かつて反収日本一に輝くほど稲作が盛んな地。そんな米とゆかりの深い村が、米にこだわったイベントとして人を呼び込もうと企画した事業だった。

 苗を植え、刈り取るだけのイベントでは面白みに欠ける-。そこで役場職員から出たアイデアが「稲で文字と絵を描こう」。村中央公民館北側の水田に初めて作ったのが幾何学的な岩木山と「稲文化のむら いなかだて」という図柄。今と比較すると驚くほどシンプルだ。使った稲は古代米の紫稲と黄稲、つがるおとめと、現在の半分以下となる3種類だけ。当時は試行錯誤の連続、下絵のために用意する角材の枠型組み立てだけでも一苦労したという。

 転機は10年目の2002年に訪れた。テレビ番組の企画で役場東側(現在の第1会場)水田に従来の6倍、約1万5千平方メートルの規模で、デザインを進化させた「岩木山と月」に挑んだ。翌年には名画「モナリザ」。初めてパソコンを導入しての描画となった。

 これまで育苗、下絵制作、田植え、稲刈りと多くの村民ボランティアに支えられながら多くの作品を送り出してきた。「風神雷神図」(06年)、「戦国武将とナポレオン」(09年)、「風と共に去りぬ」(15年)と図柄は年々精細になっていく。12年には道の駅いなかだて内に第2会場を整備。こちらは「ウルトラマン」(13年)、「サザエさん」(14年)、「スター・ウォーズ」(15年)とおなじみの作品を取り上げ客足はうなぎ登り。マスコミ報道の後押しもあって「アートの村」は全国区となった。

 24年目の16年は第1会場がNHK大河ドラマ「真田丸より 石田三成と真田昌幸」、第2会場は東宝の映画「シン・ゴジラ」。観覧料収入は1億円近くに達した。田んぼアートを村活性化の起爆剤に据えてきた村長の鈴木孝雄村おこし推進協議会長は「村民が自信を持つようになったことがうれしい」と目を細める。