東奥日報 東奥賞


第65回東奥賞

 東奥日報社が文化、学術、産業など各分野で活躍し本県の発展に功績があった個人・団体に贈る第65回東奥賞が決まった。東奥特別賞は、ロンドン五輪レスリング女子63キロ級で金メダルを獲得し五輪3連覇の偉業を達成した伊調馨さん(八戸市出身)に贈呈。東奥賞は同五輪レスリング女子48キロ級金メダルの小原日登美さん(同)、同五輪アーチェリー男子個人銀メダルの古川高晴さん(青森市出身)、本県川柳界の振興に貢献した高田寄生木(やどりぎ)=本名・高田利兵衛=さん(むつ市)、本県郷土史の発展に尽くした稲葉克夫さん(弘前市)、高校野球甲子園大会で3季連続準優勝に輝いた光星学院高校硬式野球部に贈る。贈呈式は12月8日午前11時から、青森市の青森国際ホテルで開かれる。伊調さんには11月22日に八戸市で、小原さんには同27日に東京都で贈呈する。


東奥賞特別賞
  ▽ 伊調馨さん(八戸出身)−レスリング女子63キロ級五輪3連覇


東奥賞
  ▽ 小原日登美さん(八戸出身)−レスリング女子48キロ級ロンドン五輪金メダル
  ▽ 古川高晴さん(青森出身)−アーチェリー男子個人ロンドン五輪銀メダル
  ▽ 高田寄生木さん(むつ)−本県川柳界振興に貢献
  ▽ 稲葉克夫さん(弘前)−本県郷土史発展に尽力
  ▽ 光星学院高校硬式野球部(八戸)−甲子園大会 3季連続準優勝



■ 「攻めて勝つ」追求 無敵の女王V4に期待
  伊調馨(いちょう かおり)さん(28)(八戸出身)

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ロンドン五輪レスリング女子63キロ級決勝で優勝を決め、雄たけびを上げる伊調馨さん
 ロンドン五輪で大会3連覇が決まった瞬間、伊調馨さんは大きく手を打ち、こぶしを突き上げた。冷静さが際立つ天才レスラーに、重圧から解き放たれたかのような笑みが浮かんだ。

 レスリング女子63キロ級。初戦から1ピリオドも失わないまま決勝へ進んだ。しかし万全な状態とは程遠かった。ロンドン入りしてから練習の際に左足首の靱帯(じんたい)を部分断裂。それでも、持ち味である攻めを貫き、決勝も完勝した。

 「3連覇というより、3回出たんだな、という感じ。年取ったんだなあと思う」。会見で淡々と話す姿に、女王としての余裕をうかがわせた。

 八戸市出身。レスリングとの出合いは3歳ごろだ。姉・千春さん(31)や兄・寿行さん(35)が練習するそばで、マットにごろごろ寝そべっていたのが始まりだった。

 おおらかでマイペース。ただし試合になれば、目の色が変わった。相手を次々なぎ倒し、数々の大会で優勝をさらった。幼少時から指導に当たってきた八戸クラブの澤内和興会長(66)は「身体能力はもちろん、集中力がずぬけていた。ここぞの場面で誰よりもすごみがあった」と振り返った。

 地元の長者中からレスリングの名門・中京女子大付高、中京女子大へ。48キロ級の千春さんと「姉妹で『金』」を目指し、アテネ、北京と五輪に出場した。夢はかなわなかったものの、自身は2大会連続金メダルを獲得。その後1年ほど休養してみて、あらためてレスリング愛に気づかされた。強くなりたい思いから出げいこを繰り返し、男子と手を合わせ、技を磨いた。「攻めて勝つ」という理想を追求し、ロンドンではさらなる高みへとたどり着いた。まだ28歳と若く、4年後のリオデジャネイロ五輪に向け、周囲の期待は高まるばかりだ。

 本人は競技生活について「今後は白紙」と強調しながら、「もし気分が乗ったら、再びマットに上がるかも」と笑った。前人未到の4連覇へと挑むのか、無敵の女王の動向に注目が集まる。



写真 ◎さらに次のステージへ(澤内和興さん=伊調馨さんを指導した八戸クラブ会長)

 地元メディアで最も栄誉ある賞である東奥賞の受賞を、心から喜んでいる。

 馨は周到な準備をして五輪に臨んだ。ロンドン入り後の練習で、左足首の靱帯(じんたい)を部分断裂した。痛かったと思うが、3連覇にこぎつけたのは立派だ。

 幼少期から中学生まで馨を指導した。闘志を内に秘め、練習は休まなかった。元気が良くてリーダーシップもある。弱音を吐かず、苦しさや痛さを口に出すことはなかった。

 馨は、さらに次のステージに向けて頑張るだろう。自分の目指すレスリングを追求していけるよう応援を続けていきたいし、馨に続く選手をこれからも育てていきたい。



■ 苦難越え有終の美 諦めずに夢かなえる
  小原日登美(おばら ひとみ)さん(31)(八戸出身)

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ロンドン五輪レスリング女子48キロ級決勝で初優勝を飾り喜ぶ小原日登美さん
 2度の引退、そして度重なるけが。小原日登美さんは多くの苦難を乗り越え、「最初で最後」と意気込んだ五輪で有終の美を飾った。

 八戸市出身。白銀小学校3年でレスリングと出合い、ずっと五輪への憧れを抱いてきた。八戸工大一高からレスリングの名門・中京女子大に進み、さらなる成長を遂げた。

 世界選手権で8度頂点に立った実力者。だが、もともとの階級である51キロ級は五輪階級ではなかった。48キロ級には妹・真喜子さん(27)がいたが、妹とは五輪を争えない。やむを得ず55キロ級に階級を上げたものの、無敵を誇った吉田沙保里(30)を超えられず、アテネ、北京五輪とも出場を逃した。「もう五輪は無理だ」。精神的に追い詰められ、レスリングから2度離れた時期があった。

 窮地を救ったのは、妹・真喜子さんの言葉だ。「お姉ちゃんなら48キロ級でまた頑張れる。私の代わりにマットに上がってほしい」

 2009年秋、自身の限界を訴えた妹からバトンを託されると、48キロ級で入れ替わるように、2度目の現役復帰を果たした。

 道は険しかった。苦手の減量にたびたび失敗。ぎっくり腰や関節痛にも悩まされ、苦労は絶えなかった。それでも家族やコーチといった周りに支えられ、ロンドン五輪出場権をもぎ取り、世界の頂点に立った。「胸を張って言える。どんなことでも諦めずに頑張れば、夢はかなう」。金メダル獲得後のインタビューではあふれる涙を何度もぬぐい、喜びをかみしめた。

 父・清美さん(57)は言った。「日登美はいばらの道を歩んで本当に良かった。いろんな痛みを味わったからこそ、今の喜びが分かるんだ」

 これからは夫・康司さん(30)を妻として支える側に回りながら、所属する自衛隊で後進の指導に当たっていく。「周りに迷惑を掛けてきた分、たくさん恩返ししなければいけない」。「第二の小原」を育てるため、レスリング界発展のために、力を尽くす。





写真 ◎経験は今後必ず生きる(鈴木力也さん=小原日登美さんを指導した八戸キッズレスリング教室代表)

 51キロ級が五輪の実施階級から消えたことで挫折し、精神的にどん底まで追い込まれた姿をずっと見てきた。

 そこから復活し、一度ならず二度の引退を超えて、子どものころから持ち続けた「オリンピックに出たい」という夢を実現、金メダルまで射止めた。普通の人ができる経験ではない。東奥賞をいただくことを、心から祝福したい。

 48キロ級に減量する苦しさも並大抵ではなかったはず。それを乗り越えた経験は今後、指導者として必ず生きる。昔から変わらない素直な性格で、社会生活の上でも何事も吸収し、夫の康司君と二人三脚で今まで以上にがんばってもらいたい。



■ 挑戦3度 努力実る リオ五輪「今以上の色を」
  古川高晴(ふるかわ たかはる)さん(28)(青森出身)

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ロンドン五輪アーチェリー男子個人で銀メダルに輝き、笑顔の古川高晴さん
 ふーっと深く息を吐く。サングラス越しに鋭いまなざしが的を見据える。放たれた矢が美しい放物線を描き、的の中央へ集まっていった。「真ん中を射続ける爽快感こそ(競技の)魅力」。安定感が自慢の古川高晴さんは、ロンドン五輪のアーチェリー男子個人戦で銀メダルを射止めてみせた。

 青森市出身。沖館中時代、弓道の所作振る舞いに憧れた。ところが、進学した青森東高校には弓道部がなく、和洋の違いがあったが弓を引けるアーチェリー部に入った。

 「練習の虫」はめきめき成長。近大進学後は多くの国内タイトルを奪い、日本の第一人者として名をはせた。

 だが五輪は「別物」。出場したアテネ、北京の2大会は、ほろ苦い記憶しか残っていない。「アテネは出るだけで満足してしまった。逆に北京は勝ちを意識し、空回りしてしまった」。近大の山田秀明監督(61)が「石橋をたたいてでも渡らないタイプ」と評する生真面目さが災いし、大舞台で肩に力が入りすぎていた。そこで今回は目標を現実的な8強に置くことで重圧を振り払った。

 ヤマ場は準決勝。オランダ選手との戦いでは、互いに譲らずシュートオフ(延長戦)へ突入。しかし自分でも驚くほど冷静だった。

 「ここぞというときほど力を抜け」。山田監督の助言通り放った一矢。70メートル先の的の中心12.2センチに吸い込まれるように刺さり、「テン(10点)」とアナウンスが満員の会場にこだました。相手が力尽き、銀メダル以上が決まると、満面の笑みで大歓声に応えた。

 決勝は韓国選手に敗れはしたが、3度目の五輪挑戦で悲願の表彰台に立った。銀メダルを首に掛け「今までは重圧で両肩が重かったけれど、今は首が重い」。舌も滑らかに、世界トップクラスの風格を漂わせた。

 リオデジャネイロ五輪にも「必ず出る」と宣言。目標は「今以上の色のメダル」と言い切った。自称「こつこつタイプの努力家」は熱き南米で、さらなる飛躍を誓った。



写真 ◎人間的な成長うれしい(手塚義浩さん=古川高晴さんを青森東高時代に指導(現青森西高教諭))

 古川選手を指導したのは高校時代の3年間。「美しい型で射なければ、点は出ない」と言ってきたことが、今の彼に生きている。他の日本人選手と比べても、彼ほど安定感のあるフォームはない。努力してきた証しだ。  銀メダルを獲得した後、自らの喜びより、周りへの感謝の思いを何度も口にしていたところが、謙虚な彼らしい。出会って10年余り。アーチェリーを通じて、技術以上に、人間的な成長を遂げているのをうれしく思う。  悔しいのは、日程が合わずロンドンに応援に行けなかったこと。4年後のリオ五輪では、声援を送る私の目の前で、ぜひ表彰台に上がってもらいたい。



■ 「結局人間が好き」 創作、柳誌発行、才能発掘
  高田寄生木(たかだ やどりぎ)さん(79)(むつ)

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「本を作るのが好きだし、川柳は人間そのものだと思う」と語る高田寄生木さん
・ぎんこうのまえにまだいる やきいもや

(第4句集「夜の駱駝」から)

 銀行には預金をしに行く人もいれば融資を頼みに行く人もいる。中には断られる人もいるかもしれない。そんな厳しい現実を、ほっこりした焼き芋のイメージで包み、温かさがにじみ出る。高田寄生木さんの優しいまなざしそのものだ。

 1960年に川柳を始めた寄生木さんの柳歴は52年に及ぶ。川柳の歴史は約250年であり、寄生木さんはその5分の1に当たる歴史を歩いてきた。4冊の句集を出すとともに、柳誌「かもしか」の編集人として全国に名をはせた。

 65年4月、寄生木さんは川内川柳会の句会報を創刊した。最初はガリ版のペラ刷りだった。何度かの改称を経て71年の101号から「かもしか」と改題、結社名も「かもしか川柳社」に変更した。

 「かもしか」は、数々の画期的な企画で現代川柳の活性化に大きな役割を果たした。中でも、川柳界の芥川賞を目指そうと故杉野草兵さんと設立した「川柳Z賞」は全国の優秀な柳人を発掘した。

 多くの若手が育ったことに満足した寄生木さんは2002年12月、通算431号で「かもしか」37年の歴史に幕を下ろす。69歳のことだ。その後「自分と同世代のための柳誌を作りたい」と隔月で「北貌(ほくぼう)」を発行、今も続ける。「人とつながっていることが私のエネルギー。人間をうたうのが川柳だし、靴屋という商売でも朝から晩まで人に接してきた。結局、私は人間が好きなんだよ」

 そして、忘れてはならないのが妻・和子さん(73)の存在。結婚してすぐ鉄筆でガリ版を書き始めてから50年近く「仕事人」として夫を支えてきた。

 「かもしか」431号と今年9月発行号で56号となった「北貌」。通算すると487号になる。「500号発行が夢。あと2年は生きないといけないな」。和子さんを見ていたずらっぽく笑う寄生木さん。二人三脚の川柳人生はまだまだ続く。



写真 ◎「Z賞」創設評価今も(野沢省悟さん=川柳触光舎主宰)

 高田寄生木氏は、1960年、28歳で川柳入門。以来、今日まで半世紀以上川柳を続け現在も「北貌」誌を発行し活躍している。

 氏には「夜の駱駝」他3冊の句集があり、川柳作家として、また県柳壇の重鎮としてその存在は重い。

 加えて氏が全国的に知られているのは「かもしか」誌の編集発行人としてである。故杉野草兵氏と設立した「川柳Z賞」は、川柳界の芥川賞として今でも評価が高い。また同誌には、全国から多数の若手柳人が集い育成された。そして70集に及ぶ「かもしか川柳文庫」の刊行。川柳界への足跡は大きい。

 氏の今回の受賞は、県川柳界にとどまらず全国川柳界への励ましともなる。



■ 羯南研究生涯かけ 「やるべきことまだまだ」
  稲葉克夫(いなば かつお)さん(80)(弘前)

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弘前市の自宅敷地内にある書斎で研究資料を広げる稲葉克夫さん
 稲葉克夫さんは、歴史の谷間に埋もれた人々の営みを掘り起こすことに情熱を注いできた。研究室にこもるのではなく、消息を訪ねて各地を駆け回り地域の人の声を集めた。「そうやって貴重なものを見つけたり、重要な話を聞けたときの喜びが大きい。多くの人との縁があって今まで続けてこられた」

 古里の田舎館村をはじめ、弘前市や八戸市、旧浪岡町などの市町村史(誌)の編さんに関わったが、過去の文献をなぞることはせず、集落を歩いて言い伝えを拾い、人々の喜びや悲しみを伝えることにこだわった。特に田舎館村史は「村の誰もが喜んで読んでくれるものになった」と自負する。

 弘前大教育学部を経て立命館大大学院で日本史を学んだ。1962年から県内各地の中学・高校で教壇に立つ傍ら、郷土史研究に打ち込んだ。76年から24年間、県文化財保護審議会委員を務め、2006年には県文化賞を受賞した。

 これまでの研究で、弘前出身で明治期の言論人陸羯南や、江戸時代に八戸に来往した思想家安藤昌益など、多くの本県ゆかりの人物に光を当ててきた。そのうち生涯をかけたといえるのが陸羯南の研究だ。

 旧制弘前一中時代に知った郷土の偉人だが、正当に評価されていないことに、地元の人間として責任を感じていた。正しい羯南像を示したい一心で、1974年から本格的に研究に取りかかった。

 地道な研究を続け、羯南と津軽との関係を深く掘り下げた。羯南研究は全国に広がり、再評価する機運が高まった。自身は研究の集大成として2007年に評伝「陸羯南の津軽」を出版。08年には発起人の1人として「陸羯南会」(弘前市)の設立に関わり、東京の陸羯南研究会と連携した研究体制を整えた。

 80歳の現在、体調が万全ではないという。だが「羯南の家族のことをもっと調べたい。自由民権運動の研究も本県は遅れている。まだまだやるべきことはいっぱいある」と、郷土史発掘の意欲はますます高まるばかりだ。





写真 ◎全国の研究者に影響(鎌田慧さん=ジャーナリスト・作家)

 稲葉さんは極めて篤実な郷土史家だ。通常、郷土史研究は狭い地域にとどまるが、稲葉さんの研究は地域を越えて全国の研究者に影響を与えている。

 例えば、明治期の偉大なジャーナリスト陸羯南の研究を長年続けてこられ、今や羯南研究は稲葉さんの研究抜きにはできない。津軽の自由民権運動をけん引した本多庸一や、一時、研究が途絶えた江戸時代の思想家安藤昌益も、稲葉さん以降、研究が盛んになった。地道な研究で郷土にゆかりのある人物を掘り起こし、全国に発信した功績は大きい。

 郷土の先人の偉業は後進に必ず自信を与えてくれる。今後も埋もれた人物を掘り起こし世に送り出してほしい。



■ 大舞台でナイン躍動 東北の被災者元気づける
  光星学院高校硬式野球部(八戸)

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甲子園で3季連続準優勝の偉業を成し遂げた光星学院ナイン=2012年8月23日、甲子園球場
 光星学院高校硬式野球部は2011年夏、12年春、同夏と、甲子園大会で3季連続準優勝という、長い高校野球史にも例のない、輝かしい成績を残した。

 1969年に太田幸司投手を擁した三沢高が、夏の甲子園決勝戦で引き分け再試合の激戦を演じてから40年あまり。春は紫紺の、夏は深紅の大優勝旗のいわゆる白河越えが、東北勢の悲願と言われ続け、3度も決勝に進出した光星学院には大きな期待が寄せられた。

 優勝こそかなわなかったが、大舞台で熱く戦い抜いた光星ナインには、県内外から惜しみない拍手が贈られた。また、その健闘ぶりは、2011年3月の東日本大震災で被災した東北の人たちに感動と勇気を与えた。

 ドラマは11年夏の第93回全国選手権大会で始まった。光星学院は県勢として44年ぶりに決勝に進出。だが試合は一方的な展開となり、日大三(西東京)に0−11で敗れた。

 3年生が抜け、新チームで秋季東北大会を制した光星学院は、11月の明治神宮大会で県勢初の頂点に。年が明け、今春の第84回選抜大会は田村主将、北條選手、金沢投手、城間選手らを中心に勝ち進み、再び決勝戦を迎えた。しかし、大阪桐蔭(大阪)の藤浪投手に12安打を浴びせるも、3−7で涙をのんだ。

 続く夏の第94回全国選手権大会。光星学院は青森大会で苦戦しながらも、4季連続で甲子園出場。本大会では強豪校を次々と下し、三たび決勝の舞台に立った。相手はまたも大阪桐蔭で、今度は藤浪投手に0−3と抑えられ、「3度目の正直」はならなかった。

 同校野球部は、1993年に仲井宗基氏(現監督)がコーチに、95年に金沢成奉氏が監督(今年9月に他県赴任)に就任し、新時代を迎えた。同じ大阪出身、東北福祉大の後輩先輩でもある両氏のもと、97年に春夏連続でともに甲子園初出場。2000年夏には甲子園初勝利を飾り、ベスト4入り。01年、03年にも8強入りするなど、00年以降、夏は初戦敗退が一度もない。





写真 ◎球史に残る奇跡的快挙(太田幸司さん=野球解説者)

 3季続けて準優勝するというのは、優勝するよりむしろ難しいぐらい。球史に残る奇跡的な快挙だ。プロに進むことが決まった北條選手、田村選手を擁していたことが強さにつながったのはもちろんだが、選手一人一人が個々の点ではなく、線としてつながり、チームとしてのまとまりがあった。

 監督の指導をはじめ、野球の質の高さが光っていた。表には出てこない苦労もきっと多かったことだろう。同じ高校野球を経験した者として、今回の業績がいかにすごいことだったかがよく分かる。

 彼らの活躍に刺激を受けて野球を志す子供たちが増え、青森県全体のレベルアップにつながれば喜ばしいことだと期待している。




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