東奥日報 東奥賞


第63回東奥賞

 東奥日報社が産業、学術、文化など各分野で活躍し本県の発展に功績のあった人・団体に贈る第63回東奥賞が決まった。今年は小惑星探査機「はやぶさ」プロジェクトマネージャーの川口淳一郎さん(55)=弘前市出身・山梨県、アニメーション制作会社エイケン社長の毛内節夫さん(69)=旧車力村出身・千葉県、児童文学者の鈴木喜代春さん(85)=田舎館村出身・千葉県、八戸市の安藤昌益資料館を育てる会に贈られる。川口さんは小惑星イトカワの探査機「はやぶさ」を立案・設計し月以外の天体との往復という世界初のプロジェクトを成功に導いた。毛内さんはテレビアニメ「サザエさん」の制作に第1回放映からチーフアニメーターとして携わるなど、40年以上にわたり人気番組を支えている。鈴木さんは代表作「十三湖のばば」など本県を題材にした作品をはじめ170冊を超える児童文学書を執筆・刊行。安藤昌益資料館を育てる会は昨年、同資料館を八戸市中心街に開館、江戸期の思想家・昌益を全国に情報発信するとともに地域活性化に貢献している。贈呈式は12月6日午後3時30分から、青森市の青森国際ホテルで開かれる。


東奥賞
  ▽ 鈴木 喜代春さん(田舎館村出身・千葉県)−170冊超す著書刊行 児童文学振興に情熱
  ▽ 毛内 節夫さん(旧車力村出身・千葉県)−「サザエさん」第1回放映から40年以上携わる
  ▽ 川口 淳一郎さん(弘前市出身・山梨県)−探査機「はやぶさ」プロジェクトマネージャー
  ▽ 安藤昌益資料館を育てる会(八戸市)−昌益が思想深めた地から情報発信



■ 「子ども主役」教育に力
  鈴木 喜代春さん(田舎館村出身・千葉県)

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「子どもが主役」の教育について熱っぽく語る鈴木さん
 1952(昭和27)年の学級文集「みつばちの子」以来、これまで刊行した児童文学や教育書は170冊を超える。「文学を書こうというつもりは全くない。ただ、ひたすら教材をつくってきた」。38年間にわたる小・中学校での教員生活で「子どもが主役」の教育に取り組んだ。文学者と言われることには抵抗がある。

 終戦直後の1945年9月に青森師範学校を卒業し、教師の道に。47年秋に赴任した黒石小学校での出来事が、自前で教材をつくるきっかけとなった。20代だった青年教師は、子どもたちの知識を深める「問題解決型学習」を取り入れていた。ある日、コメづくりの授業で農家の収入を子どもたちと調べたが赤字だった。授業を受けた農家のある児童が、日記に「おら、百姓やらね」と記した。

 その後、衝撃的な光景を目にした。その児童が父母を手伝って、田植えをしていた。「児童は現実から逃げず、未来に希望を持って生きている。私の教育には知識はあるが、人間がなかった」。人間の生きざまを教えようと教材を探したが、どこにもない。「自分で書くしかない」と思い立った。後に、この出来事を題材にした物語「北風の子」(62年)を出版した。

 知人の誘いで54年から千葉県の小学校に赴任し、教材づくりを本格化。コメづくりの過酷さを描いた「十三湖のばば」(74年刊行)、新渡戸伝を取り上げた「飢餓の大地三本木原」(77年)など本県を題材にした作品も多い。「離れていても私の心の中に青森が生きている」

 昭和50年代、教育現場は偏差値重視となった。「学校の主人公は子どもだ」と、執筆に熱が入った。たくましく生きる子どもの姿を描いた「ダメな子ビリの子まけない子」(82年)は全国の児童の大きな反響を呼んだ。

 教員退職後26年たった現在、仲間と結成したボランティア団体で子どもに送る大人のメッセージをつづった本をつくっている。「今後、子ども自身の声や叫びを取り上げて1冊の本にしたい」。子どもに向き合う情熱はいまだ衰えていない。

写真 ◎読む大人にも重い示唆(土屋 直人さん=岩手大学教育学部准教授)

 過日、鈴木喜代春氏および東奥日報社から、鈴木氏のこのたびの受賞の由を聞いた。「長年にわたる児童文学分野での業績」がその趣旨・理由という。

 鈴木氏は千葉に移って後、青森(の人)を舞台・題材にし、あるいは青森を想像した、例えば以下の作品を書いている。『北風の子』1962年、『白い河』(三部作)69年、『十三湖のばば』74年、『飢餓の大地 三本木原』77年、『一郎地蔵』81年、『北の海の白い十字架』85年、『津軽ボサマの旅三味線』85年、『津軽の山歌物語』87年、『白神山地』98年、『けがづの子』2005年。

 氏はこれらを含めた百数十編の児童文学作品は「教材」として作ってきたと述べているが、読む大人にも重い示唆・問いを投げかけるものがある。一方、その取り上げる人物の位置づけや観点に潜む著者の意図には、それぞれいろいろな見方をとることができよう。

 わたしたちはこれからも繰り返し、氏が書いてきた作品群と、そこに一貫・通底する「人間」、その「苦」の持つ意味を問い返し、またいま一度、多様な角度から鈴木氏の生き方・姿勢を考えてみなければならないと思う。



■ セル画こだわり続け
  毛内 節夫さん(旧車力村出身・千葉県)

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アニメ「サザエさん」のセル画を手にする毛内さん。「私にとってのサザエさん? もう骨の髄まで、どこもかしこも、どこを切ってもサザエさんになっちゃってます」と話す
 小さな子供からお年寄りまで国民的に愛されている長谷川町子原作の漫画「サザエさん」。毛内さんは、1969年にスタートしたテレビアニメ(フジテレビ日曜夜6時半、本県では青森テレビ土曜夜5時)の第1回放映からチーフアニメーターとして携わり、その後、プロデューサー、社長と立場を変えながら40年以上、かかわり続けている。

 79年9月16日に最高視聴率39.4%をマーク。今も年間平均20%近い視聴率を保ち、10月には5週連続全番組中最高視聴率を記録するなど、今なお圧倒的な人気を誇る。

 長年、愛されている理由について、毛内さんは「近年、世の中が急激に変化している中にあって、『サザエさん』の世界は、現代劇でありながら時代が止まっており、人の普遍的な所で芝居をしているので、見ている人が少し『ほっ』とするのではないでしょうか。コテコテのボリュームたっぷりの洋食系ではなく、和食、それもお茶漬けに近いのかもしれませんね」と語る。

 今なお、ちゃぶ台が登場するなど、当時と家の中の様子はほとんど変わらない。

 「数年後に再放送した時にも違和感ないように、なるべく流行の物を入れないようにしている。クーラーも車もない。テレビはちょっと横長になったけど、洗濯機はそのまま。縁側もあるし、家全体がキャラクター。親子とか、友達とか、近所の付き合いとかも一切変わらない」と話す。

 テレビアニメが次々とデジタル化する中、唯一、セル画を使ったアナログフィルムにこだわっている。「それだけ手間暇がかかるが、デジタルと違って、フィルムは微妙に動いており、柔らかい雰囲気が出せる」とセル画の魅力を語る。

 これまで放映した回数は2082回(11月21日まで)。1回の放映は3話。スペシャルも入れると、話数は6500本近くに上る。

 「普通アニメは1年で終わり。でも、サザエさんに携わって3年目ごろかな、日常のことを描いていて面白いし、これは永久に続くんじゃないかなと思った。これからも続く限りサザエさんにかかわっていきたいですね」

写真 ◎「日本の原風景」残して(川口 淳士さん=長谷川町子美術館事務局長)

 毛内さんとは美術館が開館した1985年からお付き合いしています。毛内さんはテレビアニメの第1回から携わっており、アニメサザエさんの育ての親と言ってもよいです。長谷川町子の漫画は46年から74年にかけて描かれた作品ですが、毛内さんは、その原作の本質をきちんと理解し、さらに今の時代をうまくつかんでアニメにしています。毛内さんだからこそできることで、それが40年以上にわたり、愛され続けている理由でしょう。

 美術館では毎年夏休み、毛内さんらの協力で、アニメサザエさん展を開いています。今年の「あさひが丘の町へようこそ」展では、テレビアニメができるまでの工程をセル画、絵コンテなどを使って紹介し、44日間で2万5千人の人出でにぎわいました。

 また、美術館のある世田谷区桜新町は毎年夏、旧浪岡町との縁でねぶた祭りを開いており、今年もサザエさんねぶた3台がサザエさん通りに繰り出しました。その意味でも青森との縁を感じます。世知辛い世の中とも言える今だからこそ、おじいちゃん、おばあちゃんがいて、孫がいて…。そうした日本の原風景とも言えるサザエさんを永久に残していってほしいです。



■ 人類史に残る宇宙挑戦
  川口 淳一郎さん(弘前市出身・山梨県)

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弘前市での講演の後、「はやぶさ」について子どもたちの質問に答える川口さん。後方は「はやぶさ」の3分の1模型(8月23日、弘前市民会館)
 日本時間6月13日午後10時52分。川口さんの目に光るものがあった。「はやぶさ」が大気圏に再突入し、オーストラリアの夜空に閃光(せんこう)を発するのを、神奈川県相模原市の管制室で見守っていた。7年間、約60億キロの旅を終えた「わが子」(川口さん)の命尽きる瞬間だった。

 月以外の天体への往復という、人類史上初の挑戦に成功し、これもまた世界で初めて月以外の物質を地球に持ち帰ることに成功した。この目標達成のため、計画の生みの親・川口さんは、イオンエンジンという超長距離航行を可能にするエンジンを採用。ほかにも、地球の重力を利用し加速・方向転換を行う地球スイングバイなど、幾つもの世界初の技術を導入した。

 絶体絶命のピンチが何度もあった。予想外に岩だらけだったイトカワへの2度の着陸で姿勢制御装置が故障。配管からエンジン燃料が噴出してアンテナを地球へ向けられなくなり、「はやぶさ」は宇宙迷子になった。エンジン3基が相次いで故障し、残る1基も寿命が尽きる寸前だった。

 川口さんは決してあきらめなかった。根気よく信号を送り続け、1カ月半後、ついに迷子の「はやぶさ」の微弱信号を発見。太陽光のわずかな圧力を利用して姿勢制御するなどの“奇策”も次々と繰り出した。神社にもお参りした。川口さん自身「津軽の“じょっぱり”だからできた」と言う。

 窮地を何度も乗り越えた満身創痍(そうい)の「はやぶさ」に、いつしか“不死鳥”の異名が付いた。そして日本中、世界中で「あきらめないことの大切さを知った」という感動の渦が巻き起こった。

 だが、「はやぶさ」にはあらかじめ、故障したエンジン2基の部品をつないで1基として使える回路を仕込んであるなど、危機脱出のための用意があった。奇跡は技術の裏打ちがあって初めて成し得たものだった。

 弘前高校から京都大学、東大大学院で機械工学を学んだ川口さん。常々「自分は科学者ではなく、技術屋」と言っている。「はやぶさ」は、世界最先端の科学技術が、国民に誇りと自信、感動まで与えてくれることを証明して見せ、政府に宇宙開発、科学研究の重要性を認識させた。

写真 ◎不屈の精神成功導く(上杉 邦憲さん=宇宙航空研究開発機構名誉教授)

 川口淳一郎さんは惑星間航行軌道の立案・設計、特に天体の重力を利用して探査機の加速や減速を行うスイングバイ技術を駆使した軌道計画に関する世界的権威であるのみならず、常にチャレンジ精神を持って新たな探査計画を立案・実行してきました。

 「はやぶさ」は今後の太陽系探査において必要となる工学技術の実証を目的とした極めてチャレンジングな実験探査機であり、川口さんの緻密(ちみつ)な分析に基づく判断力と何事にもあきらめない不屈の精神があって初めてこのミッションが成功したことは万人の認めるところです。

 「はやぶさ」帰還1カ月前の今年5月に打ち上げられた「イカロス」は、太陽からの輻射(ふくしゃ)を受けてヨットのように航行するという全く新しい概念の実験機で、これもこれからの宇宙航海時代を開くものとして川口さんが立案したものです。

 東奥賞受賞を励みとして、今後ますます活躍をされることを祈っています。



■ 市民力で拠点つくる
  安藤昌益資料館を育てる会(八戸市)

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開館1周年記念イベントで、展示資料を説明する三浦館長(中央)=10月24日
 「安藤昌益資料館」は八戸市の中心街の一角、八日町にある。

 昨年10月の開館以来、1年間の来館者は1500人を超えた。県外客も多いが、海外からもやって来る。今年5月には、休暇で来日していたカナダの大学の名誉教授が「インターネットで知った」と訪ねて来たという。

 「安藤昌益」という存在が八戸に人を呼び寄せる。そのよりどころをつくり、運営しているのが「安藤昌益資料館を育てる会」だ。東京、大阪など県外を含め個人・法人合わせ約80の会員がいる。

 昌益は、江戸時代中期に八戸に住んでいた町医者。主著「自然真営道」などで武士が支配する封建社会を激烈に批判し、独創的な平等思想を唱えた。  昌益が思想を深めた八戸に昌益研究と情報発信の拠点をつくり、地域活性化にもつなげようと、市民有志らが2008年11月、「育てる会」の前身「安藤昌益資料館をつくる会」を結成した。

 会員を募る文書にこんな言葉がある。「行政に求めるだけでは進まない」「市民自ら」やろうと。「つくる会」以来の会長である根城秀峰さんは「資料館をつくったのは『市民力』です」と言う。

 「八戸のためになるなら」と、多くの市民が意気に感じた。八戸酒類八鶴工場は、試飲展示場の蔵を無償で提供した。各種団体のほか、「父の遺産です」という寄付もあった。改装や展示には、八戸工業大学の学生らが協力。市内の石材店は、肖像画がない昌益の姿を想像して石像を制作し、寄贈した。

 資料館には「自然真営道」の稿本(東大付属図書館所蔵)や八戸藩日記など史料の複製35点、パネル25点のほか、関係出版物を展示している。複製史料は、実際に手に取って見ることができる。

 複製のための史料撮影へ、所蔵施設と交渉を重ねた資料館の三浦忠司館長は「私たちの思いを理解し快く便宜を図ってくれた施設もあったが、かなりガードが厳しい所もあった」と振り返る。

 「(八戸に)安藤昌益記念館付属学校を建てるべきだと思います」。1992年10月、八戸で開かれた「昌益国際フェスティバル」でパネリストを務めた作家、井上ひさしさん(今年4月死去)がそう提言した。

 「ずっと心にひっかかっていた。井上さんの言葉が実現した」と根城会長は話す。三浦館長は「資料館を拠点に『昌益学校』をつくり、思想はもちろんだが、まちづくりについても学び合いたい」と夢を膨らませる。

写真 ◎お手伝いこれからも(熊谷 拓治さん=元八戸青年会議所理事長、映画評論家)

 三浦忠司館長をはじめ関係者のご努力によって始まった「安藤昌益資料館」。その事業が権威と伝統を持つ東奥賞を受賞した。昌益とその研究者の方々を敬愛する私にとっても無上の喜びである。

 かつて八戸青年会議所で安藤昌益のスライドを制作し、全国で上映運動を続けたころの記憶がよみがえる。「安藤さんって、どこのどなたさんですか?」と八戸市民が首をかしげる場面で始まるあの作品。今では、多くの方々の力で昌益は広く知られ、外国でもファンがいる。ただ、依然として、昌益思想は難解と敬遠する向きもある。

 昌益は延享から宝暦の時代に八戸に居住し、悲惨な飢饉(ききん)の現実を直視し、破天荒な思想をつくり上げた。その奇跡を現代でも体感できる方法がある。かつて昌益が立ったこの地に立ち、昌益の著書や資料に自分の手で触れ、八戸の昌益の信奉者と語り合うこと。その時、安藤昌益は眼前に鮮やかによみがえる。

 それが、この手作りの資料館の不思議な力であり、稀有(けう)の魅力だ。ここを拠点に交流し、新しいエネルギーを創成させること。これも昌益の言う「互性」だろう。語るにつれ、東奥賞受賞の喜びが再びこみ上げてきた。心からの祝意を表したい。




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