東奥日報 東奥賞


第58回東奥賞

 東奥日報社が産業、学術、文化など各分野で活躍し、本県の発展に功績のあった人や団体に贈る第五十八回東奥賞が決まった。今年は洋画家の佐野ぬいさん(73)=弘前市出身、東京都=と、俳句の加藤憲曠さん(85)=八戸市=に贈られる。

 佐野さんは青を基調に独自の世界を確立し、女性抽象画家の第一人者として高い評価を得ている。

 加藤さんは長年にわたり県俳句懇話会の会長を務め、本県俳壇の振興に貢献した。

 贈呈式は十二月三日午前十一時から青森市のホテル青森で行われる。


東奥賞
  ▽ 佐野 ぬいさん(弘前市出身、東京都)−青を基調に独自の世界を確立した女性抽象画家の第一人者
  ▽ 加藤 憲曠さん(八戸市)−県俳句懇話会の会長を長年務め、本県俳壇の振興に貢献



■ “青”躍る独自の世界確立
  佐野 ぬいさん(弘前市出身、東京都)

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「受賞記念展は、全部新作を見せたい」とキャンバスに向かう佐野さん
 青いガラス瓶、青い鉛筆、青いノート。東京都杉並区のアトリエは、キャンバスの外側まで「マイカラー」の青があふれている。ノートには「さみしいときは青という字を書いていると落ち着くのです。青青青…」という寺山修司の詩が書き留めてあった。「これを見て、その通りだ、って。私が青い色を使うのも同じ気持ちだから」と朗らかに笑う。

 弘前市中心部の菓子店で生まれ育った。色とりどりのお菓子や洋酒の瓶に囲まれ、喫茶室では常連の石坂洋次郎や棟方志功らが文学談議を繰り広げていた。キャンバスに見られる研ぎ澄まされた色彩感覚や豊かな詩情は、古里ではぐくまれた。

 弘前中央高校時代、パリを描いた佐伯祐三の画集に出合い、衝撃を受けた。「パリに行きたい。絵描きになろうっていうんじゃなく、とにかくパリに行って、街並みを描きたいって思ったんです」。教会や外国人宣教師館など市内の洋風建築物をスケッチし尽くし、函館まで足を延ばした。

 一九五一年、少しでもあこがれのパリに近づこうと女子美術大学へ進んだ。マティスの影響などもあって、画面は次第に抽象化し、多彩な青が主役になっていく。

 卒業した五五年、女流画家協会展でT夫人賞を受賞。新制作協会展で三度の新作家賞を受賞し、六九年、同協会会員に推挙された。二〇〇二年には損保ジャパン東郷青児美術館大賞を受賞した。

 今年四月、青森市で大規模な展覧会を開き、高校時代のデッサンから最新作までを並べた。青が形や線、他の色彩と結びつき、生き生きと躍る画面は、多くの人を魅了した。「抽象画は分からないと思われがちだが、色や形を見ているだけで何だか楽しい−と言ってもらえたのがよかった」と、にこやかに語る。

 とはいえ、自身に回顧展という意識は全くなかった。「過去のことを考えていられないの。昔を思い出す力があったら、次にやることのエネルギーにする」と言い切る。

 九月に中国のシルクロードを旅した。砂漠の色。空の色。敦煌・莫高窟の仏像にかすかに残るラピスラズリ。また新たなイメージをとらえてきた。「これからもどこへでも出ていきたい。未知の国がいい。そこで何かをつかまえてきて描きたい」

 来年一月には、生家向かいの弘前市立百石町展示館で東奥賞受賞記念展を開くことが決まった。

 パリへのあこがれから画家の道を突き進んできた情熱は、今も少しも変わらず、さらに新たな世界へと向かっている。

写真 ◎羨ましいほどの感性(草薙 奈津子さん=平塚市美術館館長・美術評論家 )

 佐野さんと親しくお話するようになったのはつい最近のこと。でも作品はずっと以前から見てきました。見てきたというより、自(おの)ずと目に入ってきてしまうのです。新制作展、日本秀作美術展、女流画家展など、どの展覧会でも佐野さんの作品の掛けられた壁面は澄んだ爽(さわ)やかな美しさ、伸び伸びした自由と知性に輝いていました。

 東京人はついつい東北は暗いとイメージしがちですが、東北出身作家の展覧会で、その明るさに驚かされることがしばしばです。そして雪国は意外と明るいんだ!と、たまに降る雪景色に見とれながら勝手に合点したりします。でもどうもそれだけではないようです。自然の包括する厳しさ、優しさ、恵み、宗教性等々、自然のすべてと言わなくとも、多くを知覚する鋭い感性がまだ体内に残っているのだと思います。単に見ているだけではないのです。佐野さんの抽象画があれほどのメッセージを伝えるのは、そのためだと思います。そんな佐野さんをすごく羨(うらや)ましく思っています。



■ 対象と向き合い年千句
  加藤 憲曠さん(八戸市)

写真
八戸・葦毛崎展望台付近の遊歩道で新しい句に思いを巡らす加藤さん
 <燈台の羽撃つかに見え鳥渡る>

 一番思い出に残る句を尋ねると、加藤憲曠さんは真っ先にこの句を挙げた。一九七八(昭和五十三)年、第二十四回角川俳句賞を受賞した「鮫角燈台(五十句詠)」の中の一句だ。渡り鳥が通っていく燈台(とうだい)を見ていると、燈台も羽ばたいて飛びそうだと詠んだ句は高い評価を得た。

 角川俳句賞には十六年続けて応募した。十四度目の挑戦で次席、十五度目で佳作に。そろそろ、と手応えを感じたときに頂点を極めた。

 テーマにした「鮫角燈台」は片側を見れば断がいでその先に海、もう一方を見れば馬が戯れる牧場で、俳句を詠むには困らない場所だという。七カ月間毎週土曜、日曜日に通い二千句作り、その中からそぎ落として選んだ五十句。風土が名句を与えてくれた。名声を与えてくれた鮫角燈台は、今でも毎年季節ごとに足を運ぶ大切な場所だ。

 秋田県阿仁合町(現在北秋田市)出身、三歳で八戸へ。専修大学進学で上京し、そこで俳句と出合った。「父親が俳句をやっている友人があまりにもうるさく勧め、五七五だから簡単だと思って…」。それをその友人が句会に出したら、当時、東京日日新聞(現毎日新聞)俳壇選者の庄司瓦全さんが加藤さんの句を選び、「草庵の輪飾り落す野風かな」と書いた短冊をくれたという。

 「自分でもまんざらじゃないなと思って。誰でもおだてられればそうでしょう」。それから六十五年。俳句とともに過ごしてきた。

 太平洋戦争時は憲兵として樺太(サハリン)に。復員後は八戸に戻り四六年、俳句結社「すすき野」会を結成した。八四年からは「薫風」を主宰している。

 県俳句懇話会会長に就任したのは八九年。人望が厚く、個性豊かな県内俳人をとりまとめて十六年になる。「(会長候補者は)いろいろあった。あの結社の人がなるのなら私は反対だとかもあってまとまらなかった。当時の楠美(春洋)会長が、それなら無難なところで、取りあえず仮に憲曠でどうだ−と言って、それが今も続いているだけ」と笑い飛ばす。

 「俳句は生活そのもの。生きがい。健康でいられるのも俳句のおかげ」

 毎月の吟行や句会、八十代半ばになった現在も一年に千句ほど作るという。平易で夢のある句風を目指している。「『詠むぞ』という気になって、じっくり腰を落ち着け対象のものを見ていると自然と句ができてくる。ものをじっくりと見る、何事もそれが基本」と目を細めた。

写真 ◎脳裏離れぬ故郷の句(原 冨士男さん=元駐ポーランド大使)

 私は、加藤君とは八戸の小学校、旧制中学を通じての同級生。彼は体格は良いが、気の優しい少年だった。

 当時、武道が必須科目となった中学で、彼は剣道部の選手となり、私たちに稽古をつけてくれた。日本武道の神髄といったものをいくらかでも会得させてくれたという意味で忘れられない。

 終戦後、加藤君は樺太の陸軍司令部から帰国、私は遅れて内蒙古から帰国して再会する。剣道四段となっていた相変わらず謙虚な「俳人」の誕生が近づいていた。

 彼が私たちの生涯にとって最も大切な場所、故郷八戸を詠んだ最近の一句、さらに二十年前に来訪してくれた私の最後の任地で彼の詠んだ一句が私の脳裏を離れない。

・海猫鳴けば全島が鳴き波寄する
 (句集「静寂」より)

・衛兵交替の足音生るる白躑躅
 (句集「島ノ越」より)

 最後に加藤君が主宰する「薫風」の充実、発展ぶりは地方文化誌としてあまり例がない貢献をしているのではないか。加藤君の東奥賞受賞を心から祝福するとともに、青森県俳句懇話会、東奥日報社にはもちろん、八戸文化協会など関係機関に心からの敬意を表したいと存じます。




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