東奥日報 東奥賞


第55回 東奥賞

 東奥日報社が本県の産業、学術、文化などさまざまな分野で活躍し、本県の発展に功績のあった人たちに贈る第五十五回東奥賞が決まった。今年は女優の奈良岡朋子さん(73)=弘前市出身・東京都、家具職人の戸沢忠蔵さん(58)=鯵ケ沢町出身・埼玉県、詩人の中寒二さん(72)=八戸市、チェアスキーヤーの四戸龍英さん(50)=野辺地町、「弘前市内の消費者金融における強盗殺人・放火事件捜査本部」の四個人と一団体に贈られる。

 奈良岡さんは劇団民芸に所属、新劇界を代表する演技派女優として第一線で活躍を続け、高い評価を得ている。戸沢さんは日本を代表する家具職人として、数々の名品を世に送り出してきた。中さんは県詩人連盟会長を長く務め、県詩壇の発展と後進の育成に尽力。四戸さんはチェアスキーの草分けとして、競技に打ち込む姿は県民に感動を与えた。また、「武富士事件」捜査本部は、一瞬にして五人の命を奪った本県史上例のない事件を粘り強い捜査で解決し、県民の安全と安心を守る警察の使命を果たした。

 贈呈式は十一月三十日午前十一時から青森市堤町一丁目のホテル青森で行われる。


東奥賞
  ▽ 四戸 龍英さん(野辺地町)−チェアスキーの草分けとして活躍
  ▽ 中 寒二さん(八戸市)−県詩壇の発展、詩人の育成に尽力
  ▽ 奈良岡 朋子さん(弘前市出身・東京都)−新劇界を代表する演技派女優
  ▽ 戸沢 忠蔵さん(鯵ケ沢町出身・埼玉県)−日本を代表する家具職人
  ▽ 武富士弘前支店強盗殺人・放火事件捜査本部−粘り強い捜査で「武富士事件」を解決



■ 世界相手 豪快な滑り
  四戸 龍英さん(野辺地町)

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パラリンピックの思い出が詰まったスキー、アウトリガー(ストック)、スキーを取り付けるフレームと四戸さん
 一九九四年三月、リレハンメル冬季パラリンピックのアルペン会場で、四戸龍英さんは大きな表彰式の輪の中にいた。

 高々と上がる日の丸。「オリンピックと同じ盛大な表彰式。空に舞う旗はまさに赤々とした日の丸だった」と覚えている。

 三度目のパラリンピック。得意の大回転で銀メダルを手にし、回転も二位。メダル二個を日本に持ち帰る活躍だった。

 雪の多い野辺地町に生まれ、幼い時からスキーに親しんだ。中学、高校と選手として活躍。ところが大学一年の時、滑降の練習中に転倒、脊髄(せきずい)を損傷し、車いすの生活になった。

 三十三歳で自らチェアスキーの世界に入った。「障害はあきらめるしかないが、スキーは断ち切れなかった」と言う。

 しかしチェアスキーを受け入れてくれるゲレンデは少なく、当時の用具では、そのままリフトに乗ることも困難で、練習は苦労の連続だった。

 八八年、チェアスキーが正式種目になったインスブルックパラリンピックに初出場し、二種目で四位。続くアルベールビル、リレハンメル大会と活躍し、長野大会では日本選手団の主将として選手宣誓した。

 引退を胸に秘めた今年のソルトレーク大会では滑降に挑んだ。学生時代に脊髄を痛めた種目で、これまで避けていたが、「このままでは悔いが残る」との思いがあった。

 前半の二段ジャンプ、急斜面直後の強烈なカーブ。スピードを落とさず歯を食いしばって恐怖心と戦った。必死でゴールに飛び込んだが、見上げると、とんでもない急斜面で、どこをどう滑ったのか覚えていない。八位入賞。続くスーパー大回転、大回転、回転も上位に入り、四種目すべて入賞という快挙だった。

 ソルトレークまで五大会連続でパラリンピックに出場し、国内大会では負け知らず。チェアスキーの第一人者が見せた最後の豪快な滑りだった。

写真 ◎豊富な練習量 実績に(伊佐 幸弘さん=日本チェアスキー協会長)

 チェアスキーの前に競技スキーをやっていただけに「勝ち方」を知っていて、大会に懸ける集中力が違っていた。

 チェアスキーは障害の程度に応じて正式には三段階に分けて競うが、大会によっては二段階だけの場合がある。中レベルとされる四戸さんは、より障害の軽いクラスに入れられるが、どんな不利な条件でも勝ちにいく強い意志を感じる。

 そうした姿勢が周囲の尊敬を集め、頼りにされ、模範にもなった。

 四戸さんの活躍は豊富な練習量に裏打ちされたものだが、黙々と練習をこなして実績を残し、若い選手には「口で言うより自分を見て学べ」という感じだった。



■ 詩作50年 意欲衰えず
  中 寒二さん(八戸市)

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八戸市鮫町の自宅書斎で原稿を執筆する中さん
 「いかなる表現、題材であっても、詩の言葉は日常の意味を脱し、初めてこの世で使われる時の新鮮さと感動で登場しなければならない」

 言葉の力を信じ、言葉の力を生かせる作品を目指し、五十年にわたって地道に詩作を続け、一貫して県内の第一線で活躍してきた。「生命力あふれる詩を」。物静かだが、ゆるぎない語り口は、その詩風にも通じる。

 詩を書き始めたのは十五、六歳のころ。「家の本棚には兄がそろえた啄木や藤村の詩集が並び、“詩の匂(にお)い”がする環境で少年期を過ごした」

 教職に就き、詩誌「北方人間」を創刊した一九五〇(昭和二十五)年ごろから本格的に詩作を開始する。詩人村次郎との交友もこのころから。戦後、日本詩壇における精神的改革の一つ「荒地グループ」の影響も詩行を支えていた。

 その後「交替詩派」「北方文学」などを経て、六八年から「表現派」を主宰。通巻百二十五号を数える同誌は、同人二十人が個性をぶつけ合い県詩壇をけん引している。

 世に問うた十数冊の詩集の中でも、第三詩集「尻取り遊び」(七一年)「発生」(七四年)を自身の転機と位置付ける。 尻取り遊び/それは おそろしく屈折した 長い道程だ (「尻取り遊び」から)

 「言葉に対する目覚めだった。純粋に言葉そのものをとらえていく方向が見つかった」という。その「尻取り遊び」で第十二回晩翠賞を受賞。「味わうほど深く、芳純なイメージをひらく」と激賞された。

 詩作の一方で八二年から十六年間、県詩人連盟会長を務め、県詩連賞の運営、年刊詩集の刊行など手掛け、詩人の育成に情熱を傾けた。また、九八年五月に本紙夕刊に執筆を開始した「あおもり詩の旅」は、県内の多彩な詩人群像をあぶり出す濃密な評論として好評を博し、連載は四年二カ月、取り上げた詩人は百三十一人に及んだ。

 現在、七十二歳。世界の辺境の地を巡り、紀行の分野でも活躍を続ける。詩集のための準備もしている。「書き続けられればいい」という「表現派」創刊時の純粋な思いは今も変わらない。

写真 ◎稀有の詩人 今も鮮烈(冬山 純さん=県詩人連盟会長)

 県詩人連盟育ての親、中寒二さんの東奥賞受賞に、もろ手を上げて慶祝の歓声をお届けしたい。

 作家左舘秀之助さんが「ホンモノの文士、稀有(けう)の詩人」と絶賛されたのは一九七一年、詩集「尻取り遊び」で第十二回晩翠賞受賞のころ。それがそのまま現在も、中さんの風姿から香気鮮烈に顕現する。

 「ことばの森に古いも新しいもない。どのような語でも、その奥に発語のなまなましさをひそかにもっている」という美学の確かさや表現愛の温かさ。詩縁に連なる者にとって、詩の旅を照らす闇の光源、航行の霧笛の韻。北方風土の岬に端然と立つ灯台さながらの中さんである。



■ 自分の可能性を追求
  奈良岡 朋子さん(弘前市出身・東京都)

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民芸の公演「根岸庵律女」で正岡子規の妹・律を演じる奈良岡さん
 父親は“ヤギの画家”こと奈良岡正夫さん(99)。その正夫さんも一九七〇年に東奥賞を受賞しており、同賞初の親子受賞となる。

 「父に報告したら『ふ〜ん』とそれだけ。制作中は何を言われても耳に入らない人だから」と苦笑いした。「自分と同じ絵かきの道へ」という父の期待に背いて飛び込んだ役者の世界。「父が『まぁ、なんとか見られるような芝居になってきたな』と言ってくれたことが一番うれしい」と表情を和ませる。

 一九二九(昭和四)年に東京で生まれたが、本籍地は弘前市。高校時代を父の郷里弘前市で過ごした。「弘前は心の古里」といい、いまも津軽への愛着は深い。

 女子美大では演劇部に在籍したが、舞台装置を担当するいわゆる「裏方」。軽い気持ちで受けた民衆芸術劇場(第一次民芸)の試験で数百倍の難関をパスして役者の道へ。当時の銀幕スター、滝沢修さん、宇野重吉さんらの薫陶を受けた。

 四九年、木下順二作の「山脈」が初舞台。以来、「かもめ」ニーナ役、「イルクーツク物語」ワーリャ役、「奇跡の人」サリバン役など数多くの当たり役を持ち、紀伊国屋演劇賞、テアトロ演劇賞、菊田一夫演劇賞など数多くの受賞歴が五十三年の役者人生を彩る。

 活躍の場は舞台だけにとどまらずテレビ、映画と幅広い。新劇きっての演技派俳優として知られているが、「名前が古くからあるだけ。舞台ごとに新人のペーペー役者のつもりでスタートしている」とかみしめるように語る。

 現在、俳優の大滝秀治さんとともに劇団民芸の代表を務める。「観客と役者は一期一会」という先輩役者の教えをモットーに、一年のうち半分は旅公演で全国をまわる。残りは東京公演とそのけいこに追われてしまう。

 「これでいいんだと思ったらもうやめた方がいい。もうちょっといい役者になれるんじゃないか、まだ自分の中に可能性があるのでは、と思えるうちは絞り出せるだけ絞るつもり。終わりのない仕事ですから」

写真 ◎役柄問わず魅力的に(石井 ふく子さん=テレビプロデユーサー)

 奈良岡さんのバイタリティーにはいつも感心させられる。

 一年の半分以上が旅公演。その後は東京での舞台、テレビや映画とご多忙をきわめておられるはずなのに、お会いした時は疲れたご様子を見せず、愚痴ひとつ聞いたことはない。

 数え切れないくらい、ご一緒に仕事をしてきたが、どんな役柄であろうとご自分のものになさり、魅力的に演じられる稀有(けう)な女優さんである。

 画家でいらっしゃるお父様とは別の世界を選ばれた奈良岡さん。でも舞台というキャンバスに縦横無尽にご自分の絵をかいていらっしゃる。すてきな方である。







■ 目標は「世界の名作」
  戸沢 忠蔵さん(鯵ケ沢町出身・埼玉県)

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「50歳を過ぎたころから、世界へのチャレンジを始めている。若い人たちももっと大きな夢、目標を持って頑張ってほしい」と話す戸沢さん
 日本を代表する家具職人。今や、その世界で知らない人はいない。仕事の請け負い先、納入先を見れば一目りょう然だ。

 皇居新宮殿、東宮御所、那須御用邸、迎賓館にはじまり、国会議事堂、衆参両院、最高裁。民間では大手都市銀行や大企業の役員室、帝国ホテルなどの超一流ホテルのスイートルーム。数え上げればきりがない。五年ほど前には、その腕を買われて中尊寺の国宝の復元にも携わった。

 一九四四(昭和十九)年、鰺ヶ沢町の網元の家に生まれた。小さいころから、船大工が修理に来るとこっそり道具を借りて、木を削って遊んだ。何より、木を削るのが大好きだった。技や感性が知らず知らずに養われ、それが職業選択の対象となったのは自然なことだった。

 青森市の職業訓練所で学んだ後、上京し、都内の木工会社に就職。従業員約百五十人の中でも、当初から群を抜いた技術で頭角を現し、入社三年目に、会社の看板を背負って全国優良家具展に出品する機会を与えられた。そして、その作品が都知事賞を獲得。翌年には最高賞の内閣総理大臣賞に輝いた。二十代前半にして、戸沢さんの実力は知られるところとなった。

 その後、オーダーメードの家具では国内一、二の老舗である三越製作所、高島屋工作所など、七社ほどを渡り歩いた。建築大工にもなったし、デザイン事務所にも入って、自らを磨いた。七七年に独立し、「ヒノキ工芸」を設立して現在に至る。「七転び八起きなんですよ」と笑う。

 最近では海外のデザイナーとの仕事も手掛け、活躍の場は広がるばかり。木を扱う仕事ならば、不可能はないと言っても過言ではない。「“木工職人”という表現が一番自分に合っているかもしれない」と話す。「日本一の家具職人になるのが若い時の目標だった。ほぼ、そのレベルには達したと自負している。次は世界で評価される物、世界の名作になり得る物を作りたい」

写真 ◎志高く揺るがぬ自負(水戸岡 鋭治さん=(株)ドーンデザイン研究所代表取締役)

 彼はマイスタージンガー(親方歌人)ならぬ、たぐいまれな「親方アーティスト」である。だが、彼は自身のことを「職人」と言い切る。そこに、その志と誇りの高さ、技と感性に対する揺るぎない自負が一層、際立つ。オリジナリティーを主張する前に、優れた作家の意匠を玩味(がんみ)し、そしゃくする。その上で、家具として世に送り出すことに持てる力を惜しみなく注ぎ込む。その修羅のごとき仕事ぶりと、一転して木を語る時の童子のような笑顔…。まさに縄文的なパワーで人を圧倒し、魅了する。

 戸沢さん、変わった物を一緒にたくさん作ってきましたね。これからも心が熱く成れるものを求め続けましょう。

■ 英知結集し真相究明
  武富士弘前支店強盗殺人・放火事件捜査本部

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金木署内での緊急逮捕後、容疑者を乗せ弘前署に到着した警察車両=2002年3月4日午前3時すぎ
 県民全体が強い衝撃を受けた日だった。二〇〇一年五月八日午前、県史上例のない凶悪犯罪が弘前市の消費者金融「武富士弘前支店」を突然襲った。「四人を救助、店内で五人の遺体を発見」「被害者は『男が油をまき放火した』と説明」。猛烈な炎と煙は、五人の生命を一瞬に奪い、「つなぎ服の、目の大きな津軽弁の男」の痕跡を完全に消し去った。

 被害者に抵抗を許すことなく、脅迫手段のガソリンに放火する手口は、全国を震撼(しんかん)させた。弘前署に設置された強盗殺人・放火事件捜査本部(本部長・木村哲刑事部長=当時)は、田端智明県警本部長の指揮下、県内各署からの警察官とともに最大約二百五十人の大捜査態勢を敷いた。しかし、数少ない情報を基にした暗中模索のいわば「消去法」での捜査は、犯人像を明確にできず長期化していく。

 年明けになって、現場にあった焼け残ったチラシのない新聞の捜査班が、印刷や紙面の微妙な差異に気付く。拡大鏡でインキの濃淡や、文字の形までの詳密な分析に成功。ミクロの視点からの、執念で容疑者への糸をたぐり寄せた。連日、新聞の隅々までを徹底的に調べた結果、販路から、この新聞が浪岡町の稲村地区に配達されたものと特定する。

 そして、今年三月四日未明、任意同行したタクシー運転手の男から自供を得、ついに緊急逮捕した。発生から実に三百日目のことだった。

 全国で未解決凶悪事件が相次ぐ中、武富士事件は国民の関心を集めた。六千件に迫る情報提供数、本紙明鏡へ舞い込む膨大な投書などは、解決を強く願う国民の期待の表れだった。

 約十カ月間、地をはう捜査を積み上げた捜査本部。極めて少ない手掛かりから事件解決を導いた手法は「放火・殺人事件捜査の手本」との高い評価を得、警察庁長官賞を受賞している。

 武富士事件以降、模倣犯は全国で約百五十件も続発したが、事件解決を契機に激減した。青森県警の捜査本部は、治安を維持し、国民の平和を守り抜いたといえる。

写真 ◎至上の「課題」に決着(大山 憲司さん=警察庁刑事局捜査第一課長)

 まず、本事件の犠牲となられました方々のごめい福を心からお祈り申し上げます。

 さて、この事件は一瞬にして五人の尊い命が奪われるという、わが国犯罪史上まれに見る凶悪な事件であり、多くの模倣犯が発生するなど社会に与えた影響は甚大なものがありました。

 本件の解決は、青森県警察の至上の課題であり、国民も大きな関心を寄せていたものでありました。

 衆目が注がれる中、十カ月余りの間、黙々と捜査に打ち込まれた「弘前市内の消費者金融における強盗殺人・放火事件捜査本部」の捜査員に対して、あらためて「ご苦労さまでした」と慰労の言葉と県民の皆さまの本件捜査へのご協力に対するお礼を申し述べたいと思います。


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