東奥日報 東奥賞




 東奥日報社が本県の産業、学術、文化などさまざまな分野で活躍し、本県の発展に功績のあった人たちに贈る本年度の東奥賞が決まったが、その「人と業績」を紹介する。第五十四回東奥賞各賞の受賞者は次の4氏。東奥賞は、私学振興に尽力、本県を担う多くの人材を育成するとともに、地域社会の発展に貢献のあった学校法人青森山田学園理事長の木村正枝氏(88)=青森市、同じく学校法人光星学院学院長の中村キヤ氏(78)=八戸市、そして本県稲作の近代経営のパイオニアとして大規模稲作を推進する笠井実氏(64)=五所川原市=の三人に、東奥賞特別賞は画業一筋に半世紀余、二科会に所属し第一線で活躍する女流画家の月舘れい氏(80)=八戸市出身、東京都=に贈られる。贈呈式は十二月一日午前十一時から青森市新町の青森グランドホテルで行われる。


東奥賞
  ▽ 木村 正枝氏(青森市)−私学振興に多大な貢献
  ▽ 中村 キヤ氏(八戸市)−私学振興に多大な貢献く
  ▽ 笠井 実氏(五所川原市)−大規模稲作を推進
   
東奥特別賞
  ▽ 月舘 れい氏(八戸市出身 東京都)−二科会に所属し活躍



■ 生徒輝く学びや築く
  木村 正枝氏(青森市)

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青森山田学園理事長として現在もかくしゃくと執務する木村正枝さん
 「私欲、名誉は求めない。しかし、夢は死ぬまで追い求める。この三つが私の誓いです」。凛(りん)とした言葉に、本県私学教育の発展に生涯をささげてきた人生観が凝縮されている。

 学園の前身である山田裁縫教授所を創立(一九一八年)した教育者、母きみさんの遺志を継ぎ、五十三歳で理事長に就任。短大を開き、学園創立五十年にあたる六八(昭和四十三)年、県民の悲願だった県都青森市への四年生大学開学を成し遂げた。近年は特にスポーツで数々の実績を残し、県民に感動と勇気と与えている。

 一九一三(大正二)年青森市生まれ。県立青森高等女学校、共立女子専門学校(東京)を卒業後も洋裁、学校給食、手芸の技能を修得。結婚後、子連れで上京し経済専門学校で学ぶなど飽くなき向学心を発揮した。

 並々ならぬ教育への情熱と強い自立心は、祖母つるさんと母きみさんの影響が大きい。祖母は家業の隆盛に尽くし、愛国婦人会青森支部で活躍。母もまた青森県婦人会の会長を務めるなど、まだまだ男性中心の社会で、堂々と女性として活躍の場を築いていたことが大いなる刺激となった。

 六六年、理事長に就き、母が築いた学園の教育理念「誠実、勤勉、純潔、明朗」を継ぎ、経営学部の単科大学としてスタートを切った青森大学に、社会学部、工学部を開設するなど東北地区有数の総合大学となった。

 地域産業、経済分野発展へ資するために積極的に学究の場を開き、文化とスポーツに対しても人材育成に取り組み、施設整備に尽力している。近年は特に山田高の卓球、野球、陸上、新体操、サッカーなど、多くの競技で頭角を現し本県スポーツ界をリード。九九年夏の甲子園野球大会で県勢三十年ぶりのベスト8を果たし、県民を沸かせたことは記憶に新しい。

 県私立学校退職金財団理事、全国主婦連合会中央委員などを務める。

写真 ◎あふれるエネルギー(中村 紀伊氏=主婦連合会参与)

 木村さんのバイタリティーにはいつも驚かされます。「どこにこんなエネルギーが」と思うくらい、会うたびに学校の新しい企画を話されます。お母さまから引き継がれた山田学園を大きく育て上げられた秘けつは、ここにあると思います。

 「思いついたら必ずやり遂げるまで頑張る」。四八年に主婦連合会を創立した私の母、奥むめおと同じです。戦前から市川房枝さんや母と親交のあった木村さんは主婦連でも中央委員、監査を務められています。八二年、国連総会の「核兵器廃絶と軍縮を求める」百万人デモに、木村さん親子と私の三人が主婦連代表で参加し「しゃもじプラカード」を手にニューヨークの街を歩いたことが印象深く心に残ります。



■ 人材育成に心血注ぐ
  中村 キヤ氏(八戸市)

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「私の教育の原点」と言う光星学院高校で生徒を見守る中村キヤさん
 半世紀以上にわたり私学教育一筋に取り組んできた。「戸惑うことも多かったが、生徒と一緒に、生徒のやりたいことをかなえたい一心でやってきた」と振り返る。今も学校法人光星学院の学院長として、光星学院高校や八戸大学をはじめ短大、高校、幼稚園など県内十二の教育施設を見守り、優れた人材育成に心血を注ぎ続ける。

 一九二三(大正十二)年、八戸市生まれ。四四(昭和十九)年、聖心女子学院高等専門学校を卒業し八戸和洋裁女塾(前白菊高校、現聖ウルスラ学院)に奉職。イメルダ幼稚園、白菊高校を経て五七年、「八戸の私学の祖」とされる父の故由太郎氏が設立した光星学院高校に奉職し、六二年に同校校長・理事に就任した。

 「資格があれば学歴は関係ない。偏差値だけが人間の価値ではない」と学院の設立当初から偏差値重視の教育とは一線を画し、社会の役に立つ人材の育成、教育に尽力。生徒の希望を受け入れ、商業科、自動車科、保育科と幅広い学習環境を提供してきた。

 また保育の実習現場として六つの幼稚園を設立。一方で、より専門的な教育の実践を目指し、七一年に八戸短期大学、八一年に八戸大学をそれぞれ設立した。

 生徒の積極性を生かす教育方針は、スポーツの人材育成にも現れ、光星学院高校からはレスリング日本代表の赤石光生選手をはじめ多くの五輪選手を輩出している。近年は光星学院高校硬式野球部が夏の甲子園で活躍。昨年は県勢三十一年ぶりのベスト4進出、今年もベスト8進出と二年連続して安定した実力を発揮した。本県高校野球のレベルの高さを全国に周知させるとともに、県民に勇気と自信を与えた。

 現在、第一線から退いたが、光星学院高校で月一回の講話を行う。「建学の精神はキリスト教の愛の精神。言葉で教えるのは難しく、教師が行動で示さなければ」と、理想の教育を追求している。

写真 ◎謙虚で「和」を第一に(三浦 貞子氏=県私学協会理事長)

東奥賞受賞、心からお祝い申し上げます。昨年の叙勲に続く中村先生の連続の受賞は、本県の私学教育界の喜びであり、誇りとするところであります。

 中村先生は立派な教育理念をお持ちの方で、「文武両道」をその基本として、礼儀・謙虚・努力・勤勉を自ら実践し、それを教育の現場に実行されております。その成果は、現実に光星学院のさまざまな活躍として実っております。

 先生は謙虚で、また人格者であり、さらに「和」を第一とする方であります。本県の私学教育界にとって、貴重な指導者の一人であります。受賞を契機に、さらなるご活躍を期待いたします。



■ 豊かな農業経営追求
  笠井 実氏(五所川原市)

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独自ブランド「おとこまい」を手にほほ笑む笠井実さん
 経営規模約四十ヘクタール。規模拡大による稲作所得の向上を目指し、着実に実践してきた。大規模稲作の先駆者として、その名は全国に知れ渡る。

 「かつての稲作は手作業だったが、除草剤が開発され、田植え機やバインダーなどが普及し、一九六〇年代前半には機械化一貫体系が整った。どれぐらいまで経営規模を拡大できるか、“未知の世界”に挑戦したかった」

 水田三ヘクタール、リンゴ園一ヘクタールの複合経営だったが、一九六七(昭和四十二)年、父親の承諾を得ないまま、リンゴ園を水田に切り替えた。「労働生産性の高い稲作一本でいった方が有利」という信念があった。

 七六年から八〇年にかけて、国の制度資金を活用し十六ヘクタールの農地を取得。さらに借地で二十ヘクタールほど拡大し、作業受託も増やした。

 だが、すべて順風満帆だったわけではない。八〇年、八一年と二年続けて大冷害に見舞われ、規模拡大による多額の借入金の返済に行き詰まった。「これで終わりかな、と思ったが、兄弟や金融機関の協力で乗り越えられた。いろんなことがあったけど、最近は何とか順調に推移している」

 自身の規模拡大と同時に、地元桜田地区で集落ぐるみの農地利用調整に情熱を注いだ。その結果、同地区の中核的農家の経営規模も拡大した。

 「みんなで話し合い、効率的な農地の利用で集落全体の利益を上げることが、個々の農家の利益につながる」と話す。

 九三年の大凶作以降、コメは全国的に豊作基調が続く。コメの価格は下落の一途をたどり、価格維持を目的とする生産調整も拡大してきた。

 「日本の農業をつぶせば困るのは消費者。農家の営農努力は欠かせないが、基盤整備の農家負担分などへの公的資金投入や、企業の経営努力で肥料・農機具の販売価格を下げることも必要。将来も農家が安心して生産できるよう、国が制度を整えてほしい」

写真 ◎農業に元気をくれた(瀬藤 芳郎氏=東北農政局長)

東奥賞の受賞に心からお祝いを申し上げたい。企業的な経営方針により大規模稲作に取り組んでいる笠井さんは、全国的にも先駆的な農業経営者であり、受賞は遅すぎたとの感もある。

 日本の水田農業は、兼業農家主体の生産構造となっているが、米価の下落など最近のコメをめぐる状況を踏まえると、意欲ある経営者に農地を集約し、生産コストを低減することが緊急の課題となっている。農林水産省としても、笠井さんのような経営者を育成するための諸施策を今後とも展開していくが、笠井さんにおかれても、青森県のみならず、日本の農業に対し、元気を与え続けていただきたいと思う。







■ 真摯に絵と向き合う
  月舘 れい氏(八戸市出身 東京都)

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西東京市の自宅2階のアトリエで制作に励む月舘れいさん
 「絵をかきたい、次はもっといい絵がかけるかもしれない−とキャンバスに向かっていたら、あっという間に年月がたってしまって…」

 半世紀を超える“絵かき人生”を振り返り、はじらうような笑顔をみせる。が、話題が絵に及ぶと口調は一変、歯切れよくなる。

 一九一四(大正三)年結成と長い歴史を誇る二科会で、ただ一人の女性常務理事。名実ともに画壇を代表する存在だが、世辞も社交も得意ではない。かつて在籍した団体展でも身銭を切って入場し、新しい才能に出会うことを無上の喜びとしている。絵に対する真摯(しんし)な姿勢と率直な批評は、会員の信頼も厚い。

 八戸市小中野の洋品店に、十人兄弟の長女として生まれた。病弱で内向的な少女は、大家族とひっきりなしの来客のにぎやかさが苦手で、部屋で絵をかき続けた。

 親の反対を押し切り女子美術専門学校(現・女子美術大学)に進学するが、太平洋戦争開戦で繰り上げ卒業。あきらめきれず再上京したが、激しさを増す戦火で帰郷を余儀なくされる。

 転機は四七(昭和二十二)年、二十七歳の時に訪れた。すでに画壇で活躍していた疎開中の故鷹山宇一氏(七戸町出身)にすすめられ、初出品した二科展で二点が入選。以後、特待賞、パリー賞、総理大臣賞と数々の賞を受け、八四年には出品作が文化庁に買い上げられた。

 テーブルのあるさりげない室内風景を描きながら独特の詩情を持つ作品は、人の心をとらえて離さない。「私にとってテーブルは宇宙。身近な場所で見慣れたビンなどが、光の加減で驚くほど美しくなる一瞬がある。それを描きたい」という。

 来年には、「これが最後」とささやかな個展を開く。「やっと何を描くべきかが見えてきた。大地の広さや宇宙の静けさ−。“大きなもの”を描いて、人は孤独だけれど、さびしい存在ではないってことを伝えたい」と夢を膨らませる。

写真 ◎穏やかな人柄に信頼(石附 進氏=二科会理事)

「今年の九州のAさんの作品はよかった…」。月舘さんの話は作品の話で終始する。深い思いが言葉の端々ににじむ。二科展会場では批評を請う人が引きも切らない。

 油絵の特質を発揮した作品は、モダンで優美、研ぎ澄まされた詩情が漂う。何度見ても、もう一度見たくなる絵だ。

 画業一筋、純で穏やかな人柄は信頼も厚い。かつて、三岸節子先生が長期のフランス滞在を前に自宅を自由に使って−と託されたエピソードもある。

 常務理事として沸騰する議論にも冷静で的確な意見を述べ、いつの間にか皆を納得させる二科会に不可欠な存在。今後も活躍を願っております。


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