東奥日報 東奥賞




 東奥日報社が本県の産業、学術・文化、社会の発展に貢献した県人や本県ゆかりの人々、団体を顕彰して贈る本年度の東奥賞がこのほど決まったが、その「人と業績」を紹介する。第五十三回東奥賞各賞の受賞者は次の五氏。東奥賞は歌人の三ツ谷平治氏(青森市)と農業岩舘義博氏(八戸市)に、東奥賞特別賞は漫画家・絵本作家の馬場のぼる氏(三戸町出身、東京都)に、東奥賞特別顕彰はプロボクサーの畑山隆則氏(青森市出身、神奈川県)とソフトボール選手の斎藤春香氏(弘前市出身、神奈川県)に贈る。なお畑山氏にはWBAスーパーフェザー級の王座に就いた平成十年に東奥賞を、斎藤氏にはアトランタオリンピックで大活躍した八年に同じく東奥賞を贈っている。


東奥賞
  ▽ 三ツ谷 平治氏(青森市)−歌人の個性を生かす
  ▽ 岩舘 義博氏(八戸市)−省力化と大衆化貫く
   
東奥特別賞
  ▽ 馬場 のぼる氏(三戸町出身 東京都)−優しさとユーモアと
   
東奥特別顕彰
  ▽ 畑山 隆則氏(青森市出身 神奈川県)−果敢な戦い連続KO
  ▽ 斎藤 春香氏(弘前市出身 神奈川県)−「日本の大砲」大活躍



■ 県歌壇の振興に貢献、後進を育成指導
  三ツ谷 平治氏(青森市)

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青森市の自宅の書斎で歌集を手にする三ツ谷平治さん
 県内の主な発掘現場には必ず姿があった−と言っても過言ではない。孝古学という名の、大地 「短歌を一つのタイプにはめることはできない。一人ひとりに主張、個性があり、その赴くままに自立を確立した作品ができるのが望ましい」。こうした思いで平成元年八月から十一年六月までの十年間、県歌人懇話会会長を務め、多士済々、六百人近い歌人の集団を一つに束ねた。

 その統率の手腕は三ツ谷流。つるの一声で会員を引っ張った初代会長の故横山武夫氏とは対照的に「ガヤガヤ言いたいことを言わせる」、いわば自由主義を貫いた。親しみやすく話しやすい雰囲気をつくることで、結社、歌風の異なる会員たちの融和・結束を図り、県歌壇の振興に貢献した。

 大正六年、鯵ケ沢町生まれ。少年時代に地元の歌誌「和船」に入会して歌作を始めた。十六歳のころ、歌会で「向う野を雲影迅し秋草の穂波俄に光失ふ」が最高点を獲得する。この時の全身のほてりが忘れられず、短歌人生を歩み出した。

 昭和十年、満州(現中国東北地区)に渡る。満鉄社員時代は八木沼丈夫主宰の「満州短歌」に所属し、アララギ系の写生、写実の洗礼を受けた。河南省で終戦を迎え二十一年に帰還するが、戦争中も歌作をやめることはなく戦野の闇(やみ)を三十一文字に詠んだ。

 三十四年「潮汐」に第一同人として迎えられ、主宰の鹿児島寿蔵氏に師事。これが歌作の上で大きな転機となる。写生を重んじながらも叙情歌であり、柔らかな人間性がにじむ師の作品によき感化を受けた。師の死後、利根川保男、三国玲子両氏らと「求青」を創刊。同誌は六十三年に「群緑」と改題し、現在「群緑」選者、青森支部長として若手の育成に当たっている。

 県歌人賞、潮汐大賞などの受賞歴を持ち、これまでに出版した個人歌集は「鵲抄」(昭和三十三年刊)から「昭和残照」(平成十二年刊)まで計七冊。「昭和残照」には昭和六十四年までの歌を収め、一つの時代に区切りを付けた。

 県歌人懇話会会長を退いた後も歌作に励む日々。「刺激がなくなってのん気になった」と笑うが、平成の歌を集めた第八歌集の出版に向けて準備を進めている。

写真 ◎鹿児島氏の遺訓継ぐ(篠 弘氏=現代歌人協会理事長)

 三ツ谷さんの歌壇における存在は大きい。師・鹿児島寿蔵の遺訓を継がれ、歌人の組織を大事にされる。しかるべき会合には、青森より出席されて、真率に発言されてきた。県歌壇に尽くされた営為も、少なからぬものがあったに違いない。この受賞に対し、心より祝意を表したい。

 この一月に上梓(じょうし)された第七歌集「昭和残照」には、氏の歌風の特徴が如実にあらわれる。風土をいつくしむ熱情から、時代への犀利(さいり)な批評眼が際立つ。辛苦をくぐり抜け昭和を生き抜いてきた、そのたくましい気息があふれていた。六年前の北京における日中歌会には、ご体調の都合で出られなかったが、次回の交流にはぜひ、ご参画を仰ぎたい。



■ 県南リンゴ農家のリーダーとして活躍
  岩舘 義博氏(八戸市)

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「リンゴの一生は人生と同じ。リンゴは私の生きがい」と話す岩舘義博さん
 リンゴの草生、無袋、わい化栽培を一貫して訴えてきた。生産の省力化と低コスト化、消費拡大のための大衆化を迫るものだった。六十数年に及ぶ実践と三十回近くの海外視察で体験した幅広い知識が、何よりの裏付けとなった。

 「人に教えられるような、立派なことはもうありませんよ」。本県リンゴ農家のためになる、良いことだ、といち早く叫んできたことが、今や多くの農家に取り入れられているからだ。

 平たんな道のりではなかった。八戸市石手洗の米と畑作の農家に生まれた。大けがをしたり、病弱だったこともあり、省力化できる作物としてリンゴに着目。昭和十年代、近くの是川地区でリンゴ栽培を始めた。

 草生も、無袋も、わい化も省力化のための方策であった。果樹の下草を刈り取らない草生栽培は、表土の流出を防ぎ、地力を増進する。「草ぼうぼうで手抜きの農園」に映るためか、理解してくれる農家は少なかった。

 昭和二十九年、弘前市で開催の全国りんご大会で発表したものの、反響はさっぱり。ところが愛媛県での果樹研究大会で関心を集めた。最初に評価したのは、なんとライバルでもあるミカン農家。リンゴ農家のオピニオンリーダーとしての大舞台は散々なものだった。

 県りんご試験場の新旧場長、木村甚弥、福島住雄両氏に同行、四十六年、欧米の産地見聞に出掛けた。「青森県のリンゴは世界一だ、芸術品だと自慢するが間違っている。世界の流れは徹底した省力化と、手ごろな大きさ、酸味が効いて何個でも食べられるリンゴ作りだ」

 勧められるまま見聞記をまとめ、講演で大玉、外観主義の本県リンゴに猛省を促した。だが、ここでも聞く耳を持つ人は少なかった。その木村氏の名を冠し、リンゴ産業功労者に与えられる木村甚弥賞を受けたのは、平成四年のことである。

 「暖地化の速度が急だ。リンゴ産地の北上が進むと思う。気候の変動に対応した品種開発を急がないと青森県でリンゴが作れなくなる」と話す。八十六歳の今も警鐘を鳴らしている。

写真 ◎時代見通す国際感覚(津川 力氏=元県りんご試験場長)

 無駄な経費をかけないで、味の良いリンゴを作る−。岩舘さんの一貫した考え方である。昭和三十年代初頭、現在のような無袋栽培は、ほとんど賛成する農家のいない中にあって、積極的に無袋栽培を推進した数少ないリンゴ生産者である。

 岩舘さんは数度に及んで海外のリンゴ栽培地を視察、いわば国際感覚の持ち主でもある。二重袋、三重袋、カヤ掛けに固執していては、外国産の安いリンゴに伍(ご)していけない時代が来ることをいち早く看破していた。まさしく炯眼(けいがん)というべきか。

 また紅玉の味と色、その豊産性を、もう一度見直してはどうかというのが、岩舘さんの今日までの主張でもある。傾聴に値する提言と言ってよい。





■ 漫画や絵本で子供たちに夢を与え続ける
  馬場 のぼる氏(三戸町出身 東京都)

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昨年11月に三戸町から名誉町民の称号を受けて来町、母校三戸小で児童に贈る漫画を描く馬場氏(写真・三戸小提供)
 温かみのある画風とゆかいなストーリー、人間の本質を見つめながら、優しい視線とユーモアで読者を包み込む。代表作「11ぴきのねこ」(こぐま社刊)は昭和四十二年の発売以来、百二十四刷、百二十万部のロングセラー。シリーズ全六冊の販売部数は、三百十三万部に上る。清く正しくはないが、どこか憎めない主人公のねこたちは、時代を超え、子どもから大人まで幅広いファンの心をとらえて離さない。

 「私の描く絵本は、漫画家としての絵本。自分でストーリーを考え、場面を考えながら絵を描いていく。絵本は、見開きで絵をたっぷり堪能することができる。こういう楽しさが、私に合っている」と絵本を描くことの面白さを表現する。

 昭和二年、三戸町で生まれた。幼いころから絵に対する非凡な才能を見せ、戦後同町に疎開していた英米文学者・翻訳家の白木茂氏(一九一〇−七七年)に認められた。二十四年五月に白木氏とともに上京。小学館の学習雑誌に作品を発表し、漫画家としてのスタートを切った。

 その後、少年雑誌、大人の雑誌、新聞にユーモアと風刺の効いた作品を次々と発表。三十一年に「ブウタン」で小学館漫画賞、四十八年に日本経済新聞に十四年間、四千回連載した「バクさん」、「11ぴきのねことあほうどり」で文芸春秋漫画賞を受賞する。

 新聞、雑誌の漫画を描き続ける一方で、作品の主力は徐々に絵本へと移っていった。五十九年に発表した長さ三・二五メートルに及ぶパノラマ式の絵巻絵本「11ぴきのねこマラソン大会」は、文章が全く無い。細部まで生き生きと描かれた、ねこの国の一場面一場面が物語になっている。この作品は海外でも高い評価を受け、イタリア・ボローニャ国際児童図書展エルバ賞を受賞した。

 平成五年、一連の作品に対して「日本漫画家協会賞文部大臣賞」が贈られた。漫画家として第一線で描き続けて五十年を過ぎても、「自分が面白いと思ったものを描きたいと思う」と話す。絵や漫画に夢と可能性を追い求める姿勢は、デビュー以来変わらない。

写真 ◎多才ぶり驚くばかり(佐藤 英和氏=こぐま社代表取締役)

 馬場さんの「11ぴきのねこ」シリーズは、わが社から出版させていただいた。第一作から既に三十三年。超ロングセラーとなり、今や百二十四版目、百二十万部売れている。

 二作目の「11ぴきのねことあほうどり」は五年後に出た。普通ならすぐ続編を出すのですが、馬場さんは自分が納得しないと出さない。六作目を出すまでに三十年もかかった。それほど作品に厳しい。

 だからこそ、シリーズすべての作品が好評を博しているのだと思う。こぐま社がここまで来れたのは本当に馬場さんのおかげだ。

 絵本を描くほか、新聞に政治漫画や四コマ漫画を連載したり、テレビドラマに出たりもする。その多彩ぶりには驚くばかりです。







■ 世界ボクシング協会2階級制覇を達成
  畑山 隆則氏(青森市出身 神奈川県)

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6月11日の対セラノ戦で8回、3度のダウンを奪いKO勝ち、2階級制覇の偉業を成し遂げた畑山隆則選手
 世界ボクシング協会(WBA)スーパーフェザー級王者から転落した昨年六月に口にした「引退」を今年になり撤回し、リングに戻ったのもつかの間。六月十一日、WBAライト級王者ヒルベルト・セラノ選手(ベネズエラ)を見事なKOで破り、2階級制覇を成し遂げた。

 日本人では過去に三人しかいない偉業。飽くなきチャレンジ精神とこれまでにも増して果敢な戦いぶりで、全国のボクシングファンを魅了した。

 実戦では一年のブランクがあった。一度途切れた気持ちの糸をつなぎ合わせるのも至難の業であり、復帰戦でもあった世界戦は不安視されていた。

 だが、それが単なる危ぐでしかなかったことを証明。勇敢で頭脳的な試合運びを見せた。

 セラノ選手の鋭いパンチには、ひるまず果敢に接近戦を挑み、相手の疲れを誘う。中盤から主導権を握り8回、勝負に出て連打を浴びせ続けた。最後は強烈な左フックから右ストレートでこの回三度目のダウンを奪い、鮮やかなKOで再びチャンピオンベルトを手にした。

 引退を表明した当時、減量苦から思うように体が動かず「ボクシングが嫌い」になっていた。プロ生活唯一の敗戦で「ボクシングに未練はない」と語り、芸能活動を始めて周囲を驚かせた。

 しかし、「節制をやめたら、逆にボクシングの面白さが分かってきた。やはり、自分に納得してからやめたい」と復帰を決めたように、結果的にはボクシングを見詰め直す機会ともなった。

 ほかの社会を知り、自分を客観的に見詰められる目も備えた。ブランクの間に先生と慕っていたほどのトレーナーが移籍したが、しっかりと一人でトレーニングを積んだ。試合直前には単身渡米し、自分を追い込んでとことん体をいじめた。

 そして再度、世界の頂点へ。減量苦から解放されてパンチのスピードが増し、自立心が頭脳的戦略を際立たせた。

 十月十一日の坂本博之選手(角海老宝石)との初防衛戦も、激しくパンチを交換する正面からの打ち合いで好試合を展開。10回KOで制した。

 戦績は27戦24勝(19KO)1敗2分け。

 温かく応援してくれる故郷に感謝し、将来は県内でがい旋防衛戦を−と願っている。

写真 ◎熟練の境地に近づく(小島 茂氏=世界ボクシング協会副会長)

 一年もブランクがあっての2階級制覇は素晴らしいとしか言いようがない。ライト級は二番目に歴史がありレベルが高く、これを制するのは快挙です。それも文句なしの勝ち方でした。

 畑山選手は自分のいいところを「テクニックとスピード」と言いますが、初防衛戦では、さらにテクニックがさえていた。天性のものに磨きをかけた。新しい米国人トレーナーと組んでいますが、短い期間で吸収する非凡なものを持っています。その点は、他の選手と明らかに違う。

 心技とも安定感が出てきて、熟練の境地に近づいていると思います。それでいて、持てる力がまだあるようにも感じる。あふれる才能に、これからも期待しています。



■ シドニー五輪ソフトボールで銀メダル獲得
  斎藤 春香氏(弘前市出身 神奈川県)

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シドニー五輪銀メダル獲得の大きな原動力として活躍した斎藤春香選手
 今や、日本女子ソフトボール界でもベテラン中のベテラン。その実力を、シドニー五輪でも遺憾なく発揮し、銀メダル獲得の原動力となった。初戦の予選リーグ第一戦・対キューバ戦で、いきなりの先頭打者本塁打。メダル獲得への重圧がかかっていた日本チームのムードも、これで一気に盛り上がり、その後の快進撃に大きく弾みをつけた。

 同じく予選リーグ第五戦・対カナダ戦では、再び右越えの先頭打者本塁打を放ち、「日本の大砲」の存在感を強烈にアピール。投手戦となることが多いソフトボールでは、一発の威力、一球の失投が試合の行方を大きく左右することが多いだけに、その勝負強さは、世界を驚かせた。

 弘前一中、弘中央と強打者でならし、弘中央三年の時、少年女子の県選抜選手として沖縄国体に出場。斎藤の活躍で本県は初の準決勝進出、その猛打が初めて全国的に注目を浴びる。

 翌六十三年、日立ソフトウェア入り。平成六年の第八回世界選手権で初めて日本代表に選ばれて以来、チームを引っ張ってきた。

 前回のアトランタ五輪では、予選リーグのプエルトリコ戦で三打席連続本塁打という離れ業をやってのけたが、惜しくも4位とメダルを逃す。この悔しさがシドニー五輪でのメダル獲得へ大きなばねになった。

 「メダルを取れなかったら、日本には帰らない」−。シドニーでの斎藤には、鬼気迫るものがあった。打てなかった日も「みんなに自分が落ち込んだところを見せたら影響が大きい。元気よく声を出すことには、好不調はない」と、コーチャーズボックスやベンチから、チームメートたちを大声で励まし、自分を励まし続けた。そして、執念は、最後に大きく結実した。

 「シドニーでは、心を一つにして、何かをすることの大切さを学んできた。今後も一年一年が勝負。この経験を糧にしていきたい」と斎藤選手。聖火の下にうち立てた偉業の輝きは、決して色あせることはない。

写真 ◎集中力トップクラス(宇津木 妙子氏=シドニー五輪ソフトボール日本チーム監督)

 二度にわたる受賞は大変素晴らしいこと。本人の努力はもとより、ご家族や県民の皆さんのおかげだと思う。心からお祝いしたい。

 斎藤さんは謙虚で、日本代表チームの中でも人望が厚い。集中力は今の日本選手の中でもトップクラスだし、常に前向きにソフトボールに取り組む姿勢が素晴らしい。シドニー五輪では、宿舎で部屋が隣だったが、夜遅くまで素振りをするなど、日ごろから集中力を生み出す努力を怠らなかった。

 今後は、若手を引っ張っていく指導者としても期待がかかる。私自身も指導者としての経験を生かし、彼女をバックアップしていきたい。


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