東奥日報 東奥賞




  東奥日報社が本県の産業や文化、社会の発展に貢献した団体・個人に贈る第五十二回東奥賞の受賞者が決まった。今回は県内の多くの遺跡の発掘・調査に携わり本県考古学界に指導的役割を果たしている村越潔氏、障害児者の社会的自立のため奔走し障害児教育に功績を挙げてきた田中光世(こうせい)氏の二人に東奥賞を、また、現代舞踊の普及に尽くし、精力的に創作活動を続ける江口乙矢氏と、ふるさとの風土に根差した心象風景を幻想的に描き、日本画に新しい可能性を開いた工藤甲人氏の二人に東奥賞特別賞を贈る。東奥賞と東奥賞特別賞の四人の受賞者の輝かしい業績を紹介する。なお、贈呈式は十二月四日午前十一時から青森市の青森グランドホテルで行う。


東奥賞
  ▽ 村越  潔氏(弘前市)−本県考古学で指導的役割
  ▽ 田中 光世氏(弘前市)−障害児教育の充実に貢献
   
東奥特別賞
  ▽ 江口 乙矢氏(野辺地出身、大阪府)−現代舞踊の発展に尽くす
  ▽ 工藤 甲人氏(弘前市出身、神奈川県)−独自の日本画世界を創造



■ 発掘現場に必ず姿が
  村越 潔氏(弘前市)

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青森市の三内丸山遺跡で発掘調査について指導する村越弘大名誉教授(右)
 県内の主な発掘現場には必ず姿があった−と言っても過言ではない。孝古学という名の、大地との格闘に取り組んで半世紀以上。青森県の縄文イコール村越であり、村越イコール考古学だった。「ぼくはコンパクトにできているから」とはにかむ小柄な体で、一枚看板の重圧を背負い続けてきた。

 北海道野付牛町生まれで横須賀市育ち。考古学との本格的な出合いは、家業の呉服屋の道をけって進学した日大史学科時代にさかのぼる。発掘の手伝いでモッコをかついだ登呂遺跡(静岡県)で「時空を超えた世界に魅せられた」。人類学の大家で恩師の八幡一郎氏の影響もあった。
 高校教師を経て、昭和三十三年に八幡氏の紹介で弘大教育学部へ。県内で唯一の考古学コースの誕生だった。以来岩木山ろく、薬師(岩木町)、オセドウ(市浦村)、垂柳(田舎館村)…と著名遺跡の発掘調査にことごとく携わった。
 中でも石神遺跡(森田村)との出合いは大きかった。ここから出土した土器を基に、円筒土器の編年を確立したからだ。簡単に言えば、円筒土器文化圏の「時間の物差し」をつくり上げたということだ。「円筒土器の村越」という評価がこの時、全国的に定着した。

 円筒土器はバケツを上下に長く伸ばしたような形が特徴で、縄文前−中期(六千−四千年前)に青函地域を中心に発展。現在では、北はサハリン、南は北陸まで広がっていたことが確認されている。

 もう一つの功績は後進の指導にある。縄文の交流・交易に詳しい福田友之・県埋蔵文化財調査センター第二課長や、三内丸山遺跡(青森市)で発掘を指揮する岡田康博・県教委三内丸山遺跡対策室主幹ら県内第一線で活躍する研究者の多くが教え子だ。本県の考古学の種をまき、そして育てたのである。現在の縄文ブームの火付け役とさえいえる。

 弘大を退官した今は、青森大考古学研究所長の肩書を持つが、その視点はサハリン、韓国と海外に広がり始めている。

◎円筒土器文化研究に新知見 (江坂輝弥氏=慶応大学名誉教授)

 村越潔先生は青森へ赴任されて既に四十年の歳月がたち、彼の研究舞台が青森県下に移って久しい。この間、岩木山麓(ろく)の遺跡、森田村石神遺跡など多くの縄文文化の遺跡の調査を手掛けられ、特に近年は青森市三内丸山遺跡の調査には指導的立場で奮闘された。

 青森県下を中心とする縄文前期から中期にわたる円筒土器文化の研究では、今日までに全く解明できなかった多くの新知見を解明された。縄文前期には原始農耕社会への第一歩を踏み出していたとする新見解は今日までの縄文文化観に大改訂を促すものである。この受賞に対して、心からお祝いしたい。



■ 常に「子どもが主役」
  田中 光世氏(弘前市)

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浪岡養護学校時代の教え子を尋ね、やさしく語りかける田中光世さん=国立療養所岩木病院
 昭和三十三年、二十五歳の新人教諭として赴任した浪岡町王余魚沢小で、知的障害を持ち、授業を抜け出して校内外を歩き回る他学級の男子児童を自分の教室に迎え入れた。これが、障害を抱える子どもたちを支える特殊教育の世界に飛び込んだきっかけ。以来四十年余にわたって、障害児教育と福祉の接点を探る活動を情熱的に続けている。

 同町女鹿沢小に転勤して、特殊学級の担任になった翌三十四年当時、県内に一つしかなかった知的障害児施設を弘前市にも設置しようと、同市土手町の街頭で運動したことも。「子どもたちには仲間が必要」の信念で、県内初の町内特殊学級合同運動会を開くなど、がむしゃらに特殊教育に取り組んだ。「子どもの発達に即した教育」を実現するため、町特殊学級共同通信票を編集したアイデアの人でもある。

 県教育庁指導主事時代の十四年間も県内の特殊学級整備に当たり、東北初の情緒障害学級を県内三市に設置。子どもの味方をモットーに、上司にかみついたことも少なくなかった。
 教育現場に戻り、定年まで勤務した県立浪岡養護学校には、隣の国立療養所岩木病院に入院している子どもたちが通学している。浪養で取り組んだ学校改革は、一人ひとりの個性を重視した、弾力的な教育内容の設定だった。高等部では、生徒の進路や趣味に応じた「生きがいとしての教育課程」を目指し選択科目を増設。生徒たちは、得意な絵で才能を発揮したり、作曲に挑戦するようになる。

 退職後も、青森共育生涯学習研究所所長、知的障害青年教室を支援するボランティアサークル「虹の会」会長などを務め、障害児者の社会的自立のために奔走している。平成七年に設立した「県障害児者の教育と福祉を推進する会」では、事務局長兼副会長として、障害児教育を側面から支える組織づくりを進める。

 自宅でパソコンに向き合いながら、教員時代を振り返ることも。忘れられないのは、東京都指導主事だった小杉長平氏との出会い。「子どもが主役。子ども以外の何ものにもとらわれてはならない」という小杉氏の言葉が人生の指針という。

◎弱きをいたわる心を感じる (小出進氏=全日本特殊教育研究連盟理事長・千葉大学名誉教授)

 「田中さん受賞」は、私にとってうれしい朗報でした。好きな友人の受賞ということに加えて、障害教育・障害福祉の分野での受賞ということもあって、二重の喜びでした。県教育庁におられたころ、文部省の会議などで、チクリと刺す一言がしばしばありました。その背後に、弱きをいたわる心のあることを感じました。
 お役所におられながら、「従来通り」をきらい、新しく事を始めるのがお好きでした。斯(し)界の今日的課題「流れを変える」にはうってつけかと思います。
 東京・浅草の酒場でご一緒に津軽三味線をきいたことを思い出します。田中さんという人を音楽的に表現すると、こうなるのかなと今でも思っています。





■ 命懸けで表現したい
  江口 乙矢氏(野辺地町出身、大阪府)

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今も一線の舞台で活躍する江口乙矢さんと須美子夫人
 六十五年間、ただひたすら現代舞踊(モダンダンス)に打ち込み、その道を今も歩み続ける。
 「いつ舞台で倒れてもいい。作品を命懸けで表現したい。そんな気持ちでやっています。そう思える私は幸せ者です」
 全身に活力と迫力があふれる。それでいて明るく気さくなのに驚かされる。

 明治四十四年、野辺地町で生まれた。満八十八歳だが、今でも毎日、五十坪のけいこ場で三十分はランニングするという。
 「生涯現役」をモットーに毎年欠かさず第一線の舞台に上がっている。今年も十一月六日、大阪・フェスティバルホールで特別公演を行った。

 本名は紀世松。昭和八年に二十二歳で上京、現代舞踊の先駆者である実兄・江口隆哉の第一号研究生となった。
 昭和二十年十一月、敗戦の混乱の中で須美子夫人と結婚し独立。大阪に江口乙矢・江口須美子舞踊研究所を開設する。
 翌二十一年から「道産子」「麦秋」などの作品を発表、須美子夫人とともに本格的に公演活動を始めた。以来、公演は毎年欠かさず行い、今年で五十四年目になる。育てた弟子や孫弟子は数知れない。

 現代舞踊は「型にはまらず、素足で自由に表現しよう」という発想から生まれた。戦前、兄・隆哉がドイツで学び、日本に広めた。乙矢さんは、それを受け継いで発展させ、日本各地にモダンダンスを紹介した。
 その功績が認められ、大阪府芸術祭奨励賞、青森県褒賞など数多く受賞しているほか、紫綬褒章、勲四等旭日小綬章も受章した。平成四年には故郷・野辺地町から、昭和五十二年に亡くなった兄・隆哉とともに名誉町民の称号も受けた。

 生まれ育った故郷への感謝を常に忘れず、機会あるごとに故郷の良さを熱っぽく語る。作品の多くが、野辺地町での生活体験から生まれているのも大きな特徴だ。今年の公演のポスターのデザインは、長男・満典さんが図案化した野辺地町の「常夜燈」だった。
 当面の目標は、九十九歳の白寿に故郷の愛宕公園の頂上で「道産子」と「麦秋」を踊ることだという。さらに「明治生まれの最終ランナー」をも目指す。まさに意気軒高である。

◎作品のバックボーンに郷愁 (垣田昭氏=元NHK芸能チーフディレクター)

 江口先生とは昭和二十七年にNHKに入社した時からのお付き合い。みちのくの雪深い風土に魂を鍛えられた骨太の人、という印象をいつも受けます。
 作品のバックボーンには常に郷愁があります。「雁の記」「宇曽利湖物語」は青森県の民話を題材にした素晴らしい作品でした。テレビ化したけれど、放送はできませんでしたが…。
 日本の神話を題材にした「八人の盗賊」という作品もありました。先生は、スタジオのてっぺんからロープで降りる命懸けの荒技に挑戦したのですが、洋舞の技術で神話の世界を表現したのは画期的でした。
 故郷への強い思いが日本への思いに発展し、日本人の自然な感情でモダンダンスを踊る。それが江口先生のすごいところです。



■ 原風景は津軽の風土
  工藤 甲人氏(弘前市出身、神奈川県)

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「蝸牛居」と名付けられたアトリエで絵筆を走らせる工藤さん
 絵筆を握って、ちょうど六十年になる。日本画の新しい可能性を模索しつつ、津軽の風土を原風景としたノスタルジック、幻想的な独自の世界を画面に紡ぎ出してきた。

 枯れ葉の吹きだまりや冬のチョウが、しばしば画面に登場する。チョウは秋に羽化して成虫のまま越冬する凍蝶(いてちょう)だ。
 アトリエは神奈川県平塚市の自宅にある。温暖な気候だが、「雪景色の中に花の咲くのを思い浮かべながら、じっと春を待つ津軽の冬が忘れられない」と語る。春の到来を待つ思いを一羽の凍蝶に重ね合わせ、遠い津軽の記憶をたぐり寄せるように、幻想の風景を描き続けてきた。

 弘前市のリンゴ農家の二男として生まれながら、北原白秋や萩原朔太郎の詩集を読みふけっていた少年時代。娯楽雑誌「キング」の付録にあった横山大観、同郷の蔦谷龍岬らの日本画に魅せられ、画家を志した。
 昭和九年、十九歳で上京。新聞配達などをしながら川端画学校に通い同十四年、日本画院展などで入選、画家の第一歩を踏み出した。
 戦後、郷里に戻り「樹木」「鳥」などのシリーズ制作に取り組み、シュールレアリスム風の新鮮な画風が画壇の注目を集めた。
 二十六年、三十六年に新制作展新作家賞を受賞。三十七年に制作の場を平塚市に移した。四十九年には新制作協会を退会し、創画会の結成に参加、会員に。日本画の制作に打ち込む一方、四十六年に東京芸大助教授、五十三年からは五年間、同教授を務め、後進の育成、指導にも努めてきた。
 こうした功績が評価され、六十三年に芸術選奨文部大臣賞を受賞。平成八年には「渇仰する麦たち」が現代の着色日本画としては初めて大英博物館に収蔵された。同年、弘前市名誉市民の称号も贈られた。

 アトリエに付けた名前は「蝸牛(かぎゅう)居」。歩みは遅くても確実に前へ進むカタツムリのようでありたい−との願いからだ。画業六十年も「カタツムリのような歩み」と形容する。
 八十四歳の現在も、絵筆に衰えはない。アトリエにこもり、津軽ではぐくまれた詩魂を絵筆に乗せ、ゆっくり、そして確実に、新たな画境を切り開きつつある。

◎北の大地に育てられた詩人 (田中 日佐夫氏=秋田県立近代美術館館長・成城大学教授)

 工藤甲人氏は生まれながらの詩人である。そして雪深き北の大地によって育てられ続けた彩管の詩人といえよう。
 厚い雪に押しつぶされそうになっている、庭の片隅の花を覆っている雪おおいの中の空間に、あるいは初冬の大地の上に舞う枯れ葉や、厳寒の森の中で越冬する蝶の姿の中に、微細にしてこの上なく大きな世界を視(み)てそれを美しく、かつ新しく芸術表現できる画人である。工藤氏はこの自分の特質をきびしい時代や環境にあっても失うことなく持続してきた人である。工藤氏の詩魂は永遠なのである。
 いつまでもお元気に絵筆をふるわれることを願いながら、心からの祝意を表するものである。


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