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(1)イエティを探しにランモチェ谷へ |
ニマ・カンツァ・シェルパとは1977年ヒマルチュリ、81年エベレスト、この二つの登山隊で苦楽をともにしたことがある。そのニマ・カンツァの移牧小屋に泊まった翌日、私と旧知のアヌー・シェルパの二人は、ランモチェ谷の最奥部を往復してから下山することにした。谷の上部へ行くと眺めが美しいからぜひ行ってみた方がいいと、この朝、ニマ=カンツァに勧められたのだった。
広闊な谷である。奥地には6000メートル級の氷雪の峻峰が、乾き切った光みなぎる青空に頂上を突き上げている。シェルパ語で「ポムラコ」という未踏峰だった(2002年日本隊初登頂)。頂上から一直線にのびて谷奥に立ちはだかる雪稜をたどれば登頂できそうに思われた。雪稜の末端部分はコル(鞍部)になっている。そこにキャンプを出せば、いまの私は無理だとしても力量のある登山者なら、ルート工作を完了すれば1日で頂上を往復できるだろうなどと、その雪稜を眼追いしながら考えた。
以前ひところ、登山に熱中していたせいで、いまだに山を眺めると登頂ルートを判断する習性がついていた。
頂上にむかって2000数百メートルの高度差でそそり立つ大氷壁の基部に、碧水をたたえたちいさな氷河湖がある。湖面に氷河が崩れ込み、湖はモレーンによって堰き止められていた。そのモレーンの一部に決壊の痕跡がある。そこは、かつて下流域を襲った災禍の原因なのだった。
谷はこの氷河湖で右折し、最奥部では幾筋もの小川が、広々とした枯れ野を蛇行しながら流れていた。谷の源頭は勾配のゆるやかな氷河の斜面からなり、その所々に岩峰が屹立している。4月も半ばとはいえ、高地では風が肌に冷たく、群生する草花はまだ蕾を堅く閉ざしたままで、流れの岸辺には淡雪が消え残っていた。
移牧小屋が数軒ある。付近に人影はないが、ヤクが放牧され、首にとりつけられた鈴の音が風に運ばれてくる。日溜りにうずくまって、じっとしてその暖かさに溶け込みたくなるような寂然とした風景だった。
このランモチェ谷には1959年12月から翌年にかけて、後述する日本雪男学術探検隊が調査に入っている。60年1月、ひとりの老人がベースキャンプにイエティ(雪男)の毛皮を売りにくる。『雪男 ヒマラヤ動物記』(林寿郎著)にそのことが書き記されているが、これについては後述する。老人が持ち込んだ毛皮の正体はヒグマだった。探検隊はそれをニセ物だと決めつけて一笑に付し、売ろうとする老人の申し出を断っている。
世界最高峰エベレストのあるソル・クーンブ地方のシェルパが「イエティ」と呼ぶ“ヒマラヤの未確認動物”がじつはヒグマの仲間なのだが、それが雪男と訳出されたことによって探検隊はある種の妄想に陥った、ということは考えられないだろうか。
この点、ランモチェ谷にほどちかいロールワリン谷を1960年に調査したエべレスト初登頂者のE・ヒラリーは、とある村でチベット人からイエティのものだという毛皮を購入し、鑑定の結果、ヒグマと判明したとき、その事実を受け入れたようである。さらにヒラリーはクムジュン村の僧院にあるイエティの頭皮を、当時の村長を連れ立ってアメリカやイギリスに持って行き、鑑定した。結果は、先進諸国の探検隊の夢を叶えてくれるものではなかったのである。
私はこの話を、当時、ヒラリーの探検隊に雇われて同行したひとりのシェルパから聞かされていたのだ。今回、私がこのランモチェ谷に来る直前のクムジュン滞在中、偶然、ヒラリーと出会う機会があった。そこで私はヒラリーに直接面談し、それについて確認したいと思った。しかし側近のシェルパに主旨を伝えたのだが、過密スケジュールでそのための時間がなく、とり計らってもらえなかった。代わりに、側近のシェルパが私の質問をヒラリーに伝えてくれたのある。
それによると、イエティの頭皮が擬製であることは科学的に証明されているのだとか。それでは、なぜ真相がシェルパの社会に周知されていないのか、という質問については、それによって信仰の疎隔をきたしてもいけないし、またその必要もなかったという返答だった。
じつのところ私は、クムジュン僧院のものと同じイエティの頭皮の毛を10本ほどもらいうけ、このほか山岳地帯に棲息するカモシカの仲間の毛も何種類か入手してあるのだが、いまだに照合すべく鑑定の機会を得ないでいる。
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