2010年7月8日(木) 東奥日報 天地人



 「知の巨人」になるずっと前、京都の旧制三高生だった梅棹忠夫さんは教授の紹介で、三沢の広沢牧場にアルバイトにやってきた。干し草の積み上げを少しだけ手伝って、いっぱい遊んで、乗馬を習ったと愉快そうに振り返っていた。

 19歳の牧場生活が後の内モンゴルでの遊牧民研究につながっていたのかもしれない。自らを探検家、野戦将校と称し世界を巡った。おもしろい、やってみよう。「知の探検家」のスタイルは、昆虫採集に熱を上げた少年時代や山登りに明け暮れた学生時代と変わらなかった。

 インドを旅して考えた。東洋でも西洋でもない異質の文明がある。東洋と西洋の間に、中央アジア、西アジア、アラビア半島を含む広大な空間「中洋」があるではないか。インダス、メソポタミア、ナイル、ユダヤ。世界の文明の源は中洋にあった。中近東なんて呼ぶなと訴えた。

 時間と空間を縦横無尽に行き交う壮大な梅棹史観の極め付きが、三内丸山「神殿都市」論だ。初めて遺跡を訪ね巨大な6本柱の跡に立った時、神殿だと直感した。交易の中から都市が生まれるのではない。神殿を抱えるのが古代都市である。「日本文明はここに始まる」という言葉が力強かった。

 だれもが知の独創の秘密を知りたがった。「わたしの基本的なものの見方はほとんど変わっていないが、視野はさまざまに変化した。望遠レンズを用いている場合もあれば、広角レンズのこともある」。世界の文明を広く、深く眺め尽くして知の巨人が逝った。


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