2009年11月14日(土) 東奥日報 天地人



 邪馬台国(やまたいこく)はどこにあったのか。江戸の世から、論争が続く。大規模集落の巨大遺跡などが見つかると、「こここそが卑弥呼(ひみこ)の都だったに違いない」「いや、不十分な状況証拠にすぎない」などと。だが、決着しない。

 奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡。邪馬台国の候補地の一つとされるこの遺跡から、女王・卑弥呼時代と重なる巨大建物跡が出土したという。邪馬台国「畿内説」を主張する学者は補強材料だと勢いづく。最有力地とされながら、王にふさわしい大型建物跡がこれまで発見されていなかったから、なおさらか。

 「九州説」の研究者が気落ちしているかといえば、そうでもないらしい。遺跡全体の発掘が進んでいないため、今回の発見だけでは卑弥呼と結びつけるのは無理。そういうことのようだ。纒向遺跡出土の土器年代にも問題があると指摘。卑弥呼がいた3世紀ではなく、4世紀以降の建物跡だと。

 中国の正史の「三国志」の第1部「魏書」の末尾にある「倭人」の条が、いわゆる「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」。邪馬台国への道のりが紹介されているが、倭人諸国の方向と距離は現実の地理とあまりにかけ離れる。魏朝皇帝が授けた金印も未発見。

 少数派だが、三国志の成立事情や倭人伝の内容の政治性などを指摘、偉大な邪馬台国や女王の存在は幻影と主張する歴史家もいる。中国人が卑弥呼と呼んだ巫女(ふじょ)がいて、その住む町が邪馬台という名だったのは事実だろうがと(岡田英弘「日本史の誕生」弓立社)。いろんな考察があって面白い。


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