2006年9月13日(水) 東奥日報 天地人



 明治、大正、昭和戦前の政治家を形容して、政治学者の丸山真男はかつて言った。政治家上がりの官僚から、官僚上がりの政治家へ、そして官僚のままの政治家が氾濫(はんらん)した、と。維新世代の藩閥政治、議会開設後の政党政治、政党消滅と戦時体制。それらを念頭に置いた指摘だろう。

 この三代目のころは、国外膨張が巨大化するにつれ、政治家が矮小化(わいしょうか)した奇妙な時期だった。同時代を生きた作家の武田泰淳は、丸山説を援用しつつ、そう回想している(「政治家の文章」岩波新書)。この著は政治的人間の思想と行動を探りつつ、そのとらえ難い多面体に迫って出色だ。

 自民党総裁選に出馬した三氏は、そうした流れからすると何代目になろうか。昭和戦後を担った政治家たちが四代目、五代目なら、もう六代目あたりか。三氏とも世襲議員で、彼らが氾濫する時代の象徴とも言える。明治以降百四十年弱で、政治家の血流は細くなってしまったのか。いささか気になることだ。

 さて三氏の掲げる理念や国家像はどうか。「美しい国」(安倍晋三氏)「きずな」(谷垣禎一氏)「日本の底力」(麻生太郎氏)。それぞれが語る幹の言葉だ。樹木に例えると、丈高きを目指すのか、枝葉がこんもりした横広がりか。そんな違いがあるようだ。

 レースは安倍氏優位で進む。勝ち馬に乗る構図なのか、かつての熱気はない。だが、ここは三氏の言葉を吟味する格好の機会だろう。多面体の政治家は、なかなか実像が見えないからだ。


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