2010年2月28日(日) 東奥日報 社説



■ よみがえる「羯南と子規」/「名山詩」松山へ

 明治言論界の巨星といわれた新聞「日本」の主筆兼社長の陸羯南(弘前市出身、1857〜1907年)が残した直筆の書「名山詩」が、伊予の国・愛媛県松山市に旅立った。

 3月2日から同市の「坂の上の雲ミュージアム」で始まる企画展・日露戦争と明治のジャーナリズム1〜「新聞『日本』と子規」に約1年間、展示される。

 「名山出名士 此語久相伝 試問巖城下 誰人天下賢」。五言絶句であるこの名山詩は、羯南の名作である。「名山の下からは有為な人物が生まれると、古くから言い伝えられている。では、この巖城(名峰岩木山)の下から、天下の賢(立派な人物)は生まれただろうか」を意味する。

 羯南が幼なじみの医師伊東重(後に弘前市長で衆院議員)宅を訪れた際にしたためたとされ、故郷の若者を鼓舞、激励したものといわれる。伊東が人材育成のため創設し今に至る財団法人・養生会(弘前市)が掛け軸として所蔵してきた。

 羯南は俳人・正岡子規の素質を見抜き、子規が病気に伏してからも父のように接し、物心両面で支えた。 日本新聞社の記者で35年の生涯を終えた子規、その古里への名山詩の旅は子規と大恩人・羯南との再会を意味しよう。そして2人が出会うきっかけとなった松山出身の羯南の親友で、青春時代、共に司法省学校に学んだ子規の叔父・加藤拓川(外交官、元松山市長)を訪ねる旅ともなる。

 羯南と子規がよみがえる。新聞「日本」を真正面に据えた企画展は少なく、2人を知る好機になることは意義深い。明治を見詰め現代を考える契機としたい。

 坂の上の雲ミュージアムは明治の軍人秋山好古・真之兄弟と子規の、松山出身者を主人公とした司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」を基にした展示を行っている。かつて「子規全集」を監修した司馬は、明治きっての逸材として羯南に強い関心を寄せ、羯南を研究すべきだと語ったことで知られる。企画展と羯南はその意味でも深い縁がある。

 羯南は激動の明治期に、政府の極端な欧化主義を批判、国民精神の発揚と国民の独立を目指す「国民主義」を唱えた。日露戦争時も戦況や国内情勢を伝える「日本」は郵便で戦地に届けられ読まれていた。

 企画展に協力し日本新聞社編集室の平面図も送った弘前側だが、ミュージアムは編集室の一部を再現、「日本」創刊号や記者たち、子規の短歌や文学革新の様子、「日本」や内外報道を示し明治ジャーナリズムの視点から世界が日露戦争をどうとらえたかに迫る。価値ある内容に期待したい。

 弘前市で行われた名山詩の壮行会で羯南会(舘田勝弘会長、会員163人)は、書を羯南自身ととらえ送り出したという。一方、1943年発足の松山子規会(会員350人)会長の井手康夫さんは「陸羯南の書・名山詩を、是非、見てみたいと思う」と語った。

 「芭蕉破(や)れて書(ふみ)読む君の声近し」

 秋の日に、子規は隣家・羯南宅の庭にあった芭蕉の木の破れ葉越しに、声を出して本を読む羯南を詠んでいる。不朽の歌であり、明治、大正、昭和を経て、羯南と子規は現代に生きている。


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