2009年12月13日(日) 東奥日報 社説



■ 十和田の原点再確認を/新渡戸友好都市20年

 三本木原開拓の祖・新渡戸傳(にとべ・つとう)の出生地である岩手県花巻市と十和田市が、新渡戸友好都市の提携を結んでから、今年で20周年を迎えた。

 記念企画として、十和田市立新渡戸記念館は「命の水 稲生川」展を来年1月17日まで開催している。水路の歴史や構造、地域とのかかわりを資料や写真パネルで紹介している。

 不毛の原野といわれた三本木原に、潤いと喜びをもたらした導水の成功から151年、十和田市の発展は常に稲生川と共にあった。友好都市の節目を機に、地域の原点を見つめ直し、その恵みの大きさを再確認したい。

 稲生川は1859(安政6)年、約4年間の難工事の末に導水に成功した。水路が開削され農業用水が引かれる前の三本木原は、人が住むのにはあまり適さない平原だったようだ。

 「夏は日光の直射を受けて暑く、冬は身を切るような北西の風が吹き荒れ…凍死する者も少なくなかった」。十和田市史は開拓以前の三本木原について、こう記す。

 その荒野の大規模開拓に乗り出したのが、南部盛岡藩士・新渡戸傳であった。1855(安政2)年に工事に着手し、トンネル2カ所約4キロを含む約11キロの水路建設に成功した。

 天候に恵まれない凶作の年に多くの農民たちが飢えに苦しんでいた開拓地域では、以前の約10倍の収穫が確保できるようになった、という。企画展のタイトル通り、まさに「命の水」だった。

 開拓事業は、傳の子・十次郎から孫・七郎へと引き継がれた。十次郎が完成させた碁盤の目状の街割りは先駆的で、近代都市計画のルーツと称される。この時に、十和田市の原型ができたのである。

 花巻市との友好都市提携は、新渡戸家を通じた歴史的なつながりと、都市構造が似ていることなどから1989(平成元)年、全国でも珍しい個人名を付けて結ばれた。

 子ども同士のキャンプ交流や花巻市で開かれるわんこそば大会への参加など、市民レベルの交流が今も続く。20周年を迎え両市は、花巻市の木であるコブシを十和田市馬事公苑に植樹し、末永い友好を誓った。

 稲生川の工事には、花巻市周辺で受け継がれた高度な用水技術が生かされた。20周年記念企画展には、それらを示す資料や地図も展示されている。

 企画展の展示コーナー入り口には、茶わん半分ほどのコメと水250リットル分のペットボトルが並ぶ。稲作には大量の「命の水」が必要なことを教えてくれる。

 南部地方一帯は古くから名馬の産地として知られたが、三本木原開拓の産業振興策として馬市が開催されて以来、「馬のまち・三本木」が形作られていく。

 明治期、陸軍が軍馬局出張所を開設し、さらに軍馬補充部に拡張されたことで、馬産地としての地位を固めた。

 昭和に入り、馬の競り市は最盛期を迎える。戦後、軍馬補充部用地が開放され、市民が誇るシンボルロード・官庁街通りの整備が進む。

 十和田市の生い立ちには稲生川が寄り添ってきた。


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