1999年12月12日(日) 東奥日報 社説



■ 縄文是川フォーラムに学ぶ

 八戸市の是川遺跡は縄文時代に花開いた亀ケ岡文化を代表する遺跡である。ところが、青森市の三内丸山遺跡に比べ、このところ話題に乏しかった。

 縄文遺跡とはいえ、是川の晩期(約三千−二千三百年前)に対し、三内丸山は前−中期(約五千五百−四千年前)と時代区分が異なる。
 是川は大正・昭和初期、泉山岩次郎、斐次郎兄弟の発掘から核心部にはほとんど手が入っていない。三内丸山は野球場建設に伴う発掘で一気に世に出た。こうした点が、その差になったようだ。

 しかし、戦前から縄文遺物の宝庫として、名を知られたのは是川遺跡である。先ごろ八戸市で開かれた「縄文是川フォーラム'99」は、是川遺跡の魅力、その不思議さをあらためて認識させるものだった。

 慶応大名誉教授の江坂輝弥氏は中学生のころ、東京から是川まで足を運び、泉山兄弟に孫のようにかわいがられたという。後に遺物の目録づくりを任され、六百三十三点が国の重要文化財に指定された。ところが実際にはこの三倍の数が指定されてもおかしくなかった、と当時のエピソードを紹介している。
 文化庁主任文化財調査官の岡村道雄氏はトチの実がたくさん見つかっていることから、アク抜きのための水場があったはず、と指摘。縄文人の暮らしぶりを知るためにも貴重な遺跡であると是川を位置付けた。

 矢じりの刺さった板が出土したことについても興味深い論議が続いた。もしも板が盾だったとすれば縄文時代に戦があったことになる。江坂、岡村の両氏は誤って刺さった可能性もあり、これだけで結論付けるのは早計とした。
 なにしろ、人体に矢じりが刺さった発掘例は縄文時代にも二十数例あるという。もっとも、戦は弥生時代からという考え方も含め、偏見を持たないで調べることを求めた。

 是川、厳密には是川中居遺跡の泥炭層の発掘調査はことし七月中旬から十月まで行われた。泉山兄弟らによる発掘から実に七十年ぶりのことである。
 是川の泥炭層は特殊泥炭層と呼ばれる。縄文人が捨てたクルミ、トチ、ナラなどの木の実の殻が外気を遮断し、普通なら腐ってしまう植物性の遺物も真空パックのように残る。発掘作業はわき出す水との戦いだった、と八戸市教育委員会文化課主幹の工藤竹久氏が振り返った。地表から一、二メートル掘り下げたあたりから目当ての泥炭層にぶつかった。
 途端に遺物の出土が続いた。木に赤漆を塗った木胎漆器(もくたいしっき)、植物を籠(かご)目に編んで漆を塗り固めた藍胎漆器(らんたいしっき)の破片、赤漆の飾り弓、赤く彩色された小型の遮光器土偶など。
 さらには江坂氏が今回確認した、象嵌(ぞうがん)文様の注口土器は種類の違う粘土を組み合わせて作ったもので、縄文晩期初頭では国内初の出土例というお墨付きも得た。

 是川遺跡の範囲は二四・五ヘクタールと推定され、このうち国史跡には三ヘクタール指定されている。今回の発掘面積はわずか六十平方メートルにすぎないが、成果が予想以上だったことは間違いない。工藤氏は一歩ずつだが来年度も着実に調査を進めると今後の方針を示した。

 岡村氏によると、縄文人の暮らしには自然と共生する生き方がうかがえるという。大きなクルミやクリの栽培は知っていても、その一方では、あるがままの自然を受け入れ、節度ある生き方を選んでいたという意味である。環境が大きなテーマとなった現代に生きる私たち。是川遺跡には今に通じるテーマが秘められている。



HOME