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地域とともに育ち、生きる
 地域の足としての鉄道

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澤田 長二郎 氏
津軽鉄道株式会社
代表取締役社長
1940年、五所川原市生まれ。五所川原高校、一橋大学商学部卒。63年、三菱商事株式会社入社。2003年、同社関連会社エム・シー砿産社長を退任。04年12月、津軽鉄道取締役社長に就任。東北鉄道協会会長。
■津軽北部の近代化に寄与

----御社設立の目的には、「津軽北部開発と津軽半島環状鉄道の敷設促進」が掲げられています。津軽鉄道の成り立ちと地域で果たしてきた役割について、あらためて教えてください。

 当社は、1928(昭和3)年に設立され、津軽五所川原~金木間で実際に鉄道の営業が始まったのが30年7月、津軽中里まで全線開業したのが同年11月です。それ以前に、陸奥鉄道(川部~五所川原)という会社があり、これが国に買い上げられた際に分配金を受け取った同社株主たちを中心に、津軽における新たな鉄道として津軽鉄道が計画され、会社が設立されました。

 当時から五所川原は商業都市で農産物などの集散地でしたが、鉄道ができるまでは、夏は馬車、冬は馬そり中心で、今でいう交通弱者という状況でした。子どもの教育にしても、北部から五所川原、あるいは青森の学校に通う手段はありませんでした。ある人が、鉄道とは、「公益に従い、義侠に生きるもの」とおっしゃいましたが、私も鉄道にかかわってから、全くその通りだと思っています。弱い者のためになることが非常に大事なわけです。津軽鉄道ができて、人々の足が確保され、物流も活発になり、この地域の近代化、産業振興には少なからず寄与してきたものと考えています。

 開通当時、津軽地方は天候不順による凶作、全国的には金融恐慌、満州事変が勃発して戦争に向かっていくという時代で、鉄道開設への地元の期待感、また開通したときの高揚感は非常に大きかったと思います。一方で、経済的にも厳しい時代ですので、経営は初めから苦しかったようです。もともとは十三湖の方まで延伸し、いずれは津軽半島を環状に結ぶ構想でしたが、敷設の費用が予定を上回るなど資金的に厳しく、中里止まりということになりました。

 翻って、現在、北海道新幹線・奥津軽いまべつ駅の開業にあたり、二次交通としてDMV(デュアル・モード・ビークル:列車が走るための軌道と自動車が走るための道路の双方を走ることができる車両)を導入できないか、という構想がありました。これができれば、形は違いますが、当時の環状線構想が実現できる可能性もあり、現在はペンディングとなっていますが、私としては、まだあきらめずに実現への期待感を持っています。

----開業当初は、旅客に加え、貨物の取り扱いも多かったようです。輸送ニーズの変化と、それに対応した御社の対応についてお話しください、

 貨物は米、リンゴなどが中心でしたが、84年に、当時の国鉄が貨物取り扱いを廃止したのに伴い、当社も貨物営業を廃止しました。それから旅客専用の路線となっています。旅客実績のピークは74年度で256万6千人。以降は、毎年、漸減が続いてきました。例外的に増加したのは2009年度で、この年は、太宰治生誕100年にあたり、地域への入り込み数自体が多かったことと、トレインアテンダント(現在のNPO法人津軽半島観光アテンダント推進協議会)の乗車を開始した年で、その効果が表れたといえると思います。

 私は、地元の利用で30万人をキープし、観光関係で5万人、10万人と上積みできれば、厳しいですが路線を存続していけると考えています。実際には、14年度に30万人を割り込み、28万2千人に減少しました。そのような状況の中で北海道新幹線開業を迎え、この効果をどのように活かすかが大きな課題となっています。新幹線についてはこれまで、八戸駅と新青森駅の開業があり、奥津軽いまべつ駅の開業は3回目のチャンスといえます。これをラスト・チャンスと捉え、その効果をしっかりと地域にも当社にも波及させなければならないと考えています。

■地域に必要とされる鉄道として

----社長に就任された時期は、イベント列車など地域を巻き込んだ御社の取り組みが広く認知され始めた頃だと思います。就任してからどのような経営理念で事業に取り組まれてきたのでしょうか。

 私が社長に就任してもう12年目になります。就任当初の懸案事項は、国から義務付けられた緊急保全整備事業で、総額4億円規模の投資が必要でした。これについては、国、県、関連自治体も負担してくれるわけですが、当社でだいたい5分の1が会社からの持ち出しとなりました。就任したときすでに債務超過状態でしたので、そこからさらに増資をしなければならないわけですが、私の友人や、地域の有志のみなさんにご協力いただいて資金を集めました。この工事ができなければ廃線にするしかないという状況でしたが、なんとか乗り切ることができました。安全のための設備更新や工事は、毎年継続的にあります。輸送業として、安全確保は最重要です。何をおいてもやらなければならない。ですから、駅舎など他に手を加えたいところがあっても、なかなかそちらまで資金が回らないというのが実情です。安全というのはサービスの基本ですが、それをやったからといってお客さまが増えるというものではありません。でもそれは率先してやらなければならない。一般の企業のように、費用対効果優先の経営はできません。私企業でありながら公的な役割を果たしているわけで、公と私の板挟みで苦悶するというところはあります。

 先ほど申し上げた通り、津軽鉄道は、開業時から厳しい経営を続けてきたわけですが、その中で、利用者拡大のために、ストーブ列車、鈴虫列車、ビール列車など、いろいろな取り組みを続けてきました。また、鉄道本体だけでなく地域と連携したイベントを仕掛けるなど、そうした気風が伝統的にありました。今までやってきたことを繰り返しているだけではやはり集客は苦しくなりますので、従来あったものにいかに新たな味付けをして新鮮味を持たせるか、という視点でそれぞれの事業に取り組んできました。社員に言っているのは、まずなんでもアイデアを出してほしいということ。そして、出されたアイデアについて、実現が厳しくても否定するのではなく、どうしたら実現できるかという方向で話し合おうということです。全国の鉄道会社が実施しているイベントなどの情報を収集していますが、ほとんど当社でやったものか、それに類似したものが多いです。

 ただ、これまでの事業を深掘りするにしても、社員の数の問題もあり、会社だけではできないこともあります。おかげさまで津軽鉄道サポーターズクラブなど、地域にいろいろな支援団体ができてさまざまなご協力をいただいておりますので、そうした方々と月1回会合を持ち、企画の実施方法などを検討しています。イベント列車が津軽鉄道の名物として定着するまで継続できたのも、地域の皆さまの支援のおかげだと思っています。

----津軽地域の活性化に向けた将来展望、その中で御社が今後果たす役割への抱負などお聞かせください。

 現在も地域の皆さまに支援されながら営業できているわけですが、今後も、そうした支援なしに独力で路線を維持することは難しいと思っています。「いい赤字」、「悪い赤字」というものはないわけですが、鉄道の役割を考えたときに、企業として赤字であっても、地域の役に立ち、社会貢献できていれば、存続していく意味があるだろうと思います。私たちが経営面での自助努力を続けるのは当然ですが、地域の合意として、もういらないと言われ、存続する意義がないと判断されたら、続けることはできないでしょう。

 当社は2020年(平成32年度)、全線開業90周年を迎えます。現在までの累積乗客数は9938万人ほどです。90周年に向けて、さらに利用者拡大への努力を続けていきますが、近々の目標として、まずは1億人を突破したいと考えています。

 また、この地域の基幹産業はやはり農業です。津軽鉄道沿線の市町村でも、都会の人に、いかにこの地域に目を向けてもらうか、来てもらうか、という取り組みが進められていますが、個人的には、例えば、空き地を農園にして、都会の人に野菜でも植えてもらい、普段は地元の人が管理してあげる。それで、収穫の時に来てもらうとか、また好きな季節に別荘感覚でこちらに来てもらう。そうした形での交流人口の拡大ができないかと考えています。何度も来ているうちに、こちらに住みたいと思ってくれるかもしれません。沿線の自治体に、そうした企画を提案していくことも、地元に密着し、また地域に支えられている企業としての役割かなと考えています。