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独自の発想と技術で
町の基幹産業を支える

■「もっと楽に」が発想の原点
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苫米地力氏
株式会社 苫米地技研工業
代表取締役
1950年、六戸町生まれ。中学卒業後、父親の営む農業を手伝う。数年の東京暮らしを経て六戸に戻り本格的に農業を営む。並行して、農業機械を自ら製作。84年、苫米地技研工業を設立。長芋掘取機、ごぼう掘取機、ごぼう収穫機、長芋収穫機用パワーコンベアなどオリジナル農業機械を次々と開発。全国各地に販路を広げる。2000年より農業をやめ同社社長業に専従。この間、「創意工夫展最優秀賞」「東北地方発明表彰 発明協会青森県支部長賞」など受賞多数。

----さまざまなオリジナル農機を開発しています。ご自身、農業を営まれていたそうですが、このようなお仕事に関わるようになったきっかけを教えてください。

 もともと家が農家で、父は水田と畑作をやっていました。私は中学卒業後、農業を手伝いましたが、父は、同年代の農家の中でも最後まで機械化をせず、馬を使っていました。その点で意見が合わず、一時、東京に働きに出たこともあります。結局、父が体調を崩したことをきっかけに六戸に戻り、先輩たちがすでにプロの農家になっていましたので、遊びに行ってはノウハウを学び、また経営者のサークルに参加して農業について勉強しました。

 徐々に畑のほうを任されるようになりましたが、当時は畑といっても雑穀中心で、野菜はほとんどありません。私の代になってから、ニンジンを始め、だんだん野菜に取り組むようになりました。その頃の播種は非常に原始的なやり方で、春特有の強い風が吹くと種がみんな飛んでしまう。そうした経験を何度も繰り返しましたので、播種機を自分で作ってやろうと思ったのが最初です。

 私は、中学の頃からものづくりが好きで、当時、通学途中にたくさんあった馬蹄や馬具を手掛ける鍛冶屋さんを毎日のように覗いていました。真っ赤な鉄を飴細工のようにこねる様がなんともうらやましくて、部活をさぼって見に行ったりしていましたが、そのうち、中に入れてもらえるようになりました。あとは見よう見まねで職人の技を盗み、中学生のうちに鉄の加工の基本は身に付いていました。馬車を引くためのチェーンぐらいは作れました。今、うちの社員を見ていてもそうですが、こちらから教え込もうとしたことは、なかなか身に付きません。本人が自分で「こういう物を作りたい」とイメージしながら学ぼうとしてくるときは、ちょっと助言すればすぐに覚えていきます。当時の私もそんな感じでした。一つできれば、あとはその応用でなんとかなります。ニンジンの播種機の次は、堆肥のスプレッターを作りました。それまでは堆肥を素手で運んで撒いていたのですが、それが嫌で嫌で。発明というのは、必要にかられるというか、もう少し楽にできないか、というのが発想の原点であり、完成までのエネルギーになっていきます。親父が買ってくれないなら自分で作るしかない、全てそんな発想で、トレーラーや、ダンプ装置など、次々作るようになりました。

----大手農機具メーカーが作れないような機械も手掛けていらっしゃいます。独創的なアイデアはどこから湧いてきているのでしょうか。

 野菜作りを始めて、ナガイモの栽培にも取り組みました。ナガイモは儲かりましたので、どんどん作りたいわけですが、道具が必要です。地中深く育ちますので、部分的に1.2メートルほど深耕しなければならない。これにはトレンチャーという機械が必要で、初めは持っている人に頼んでやってもらっていましたが、お金がかかりますので、これも作りました。

 収穫もまた大変で、一日中掘り続けて、夜は腰が痛くてのたうちまわるという生活が続きました。負けず嫌いなので、よその人が一日200メートル掘るなら、俺は300メートル掘ろうと、そんなことをやっていましたので体は本当にぼろぼろでした。これでは続かない、もっと楽にやる方法はないかと、そこからナガイモ収穫機の開発に取り組みました。当時、そんなものは不可能と言われていて、どこの大手メーカーも持っていませんでしたし、設計を持ち込んで製品化をお願いしても門前払いという状況でした。そんな中、唯一、ヤンマーが注目してくれましたので、製作販売の権利を譲渡し、そのお金で現在の場所に工場を建てました。それまでは自宅の納屋でやっていましたので、ここから本格的に農機具メーカーとして活動を始めたことになります。

 その後、農業と兼業しながら、徐々に工場での仕事にウェイトを移し、商品も増えていきました。それでも、いずれは専業農家に戻るつもりで、農地も拡大してきたのですが、事情があって平成12年に農業をやめて工場に専念することを決意し、現在まで続けています。

■農家の堅実な経営を支援

----商品開発で気をつけていることや苦労していることは、どんな点でしょうか。

 完成した商品についても、絶えず、「これでいいのか」「もっとよくならないか」ということを考えています。そのために、できるだけお客さんが機械を使う現場を訪ね、要望や意見を聞いてきました。これは開発にとって本当に肥やしになります。次につながるアイデアがたくさんあります。例えば、ナガイモというのは地下で育ちますので、収穫の時、どこを掘ればいいのか分かりにくい。経験のある人はきちんとできますが、そうでない人もいます。それなら、収穫の前に覆土をはぎ取る前処理のための機械を作ろうということになるわけです。現場に行くことで、足りないもの、農家が求めているものを発見することができます。またクレームもしっかり聞いて、使用する側の問題であれば使い方を指導しますし、時には、納得できない人のために、その人の言う通りのものを作ってみせることもあります。それで「やっぱりこれではだめでしょう」と見せて納得させる。そんなこともしました。クレームにも、中にはくみ上げるべきこともあります。また、自分の現場ややり方に合わせて機械を改造している人もいて、そこからヒントをもらうこともあります。農家も、私も、とにかくいいものを求めているわけですから、膝を交えて意見交換することは非常に重要です。

 機械づくりを通して、多くの北海道のナガイモ農家さんとも知り合いました。同じナガイモでも北海道は規模が違います。一軒の農家がこちらの10倍もの面積でやっていますので、消耗品はこちらで10年もつものが1年でだめになってしまいます。また、トラクターもこの辺りでは30とか50馬力の物が中心ですが、向こうでは100から200、中には350馬力といったものを使っています。それで引き回すわけですから、それだけの耐久性のある北海道仕様の製品が必要になります。これは六戸だけでやっていては分からないことでした。初めの頃は、作ってはまだ強さが足りない、次作ってもまだ駄目と、1台買ってもらうために結局3台納めたこともあります。でも、そうした経験があったから、今、北海道で買ってもらえる強い製品ができました。現場を見て、農家の声を聞かなければ、現在、うちの主力となっている商品はできていなかったと思います。

----地元の農家さんにとって頼もしい存在ではないでしょうか。六戸町の農業についてのご提言などありましたらお聞かせください。

 青森県は日本一のナガイモの出荷量を誇ってきましたが、近年は、北海道に追いつかれる年があります。現在、栽培面積ではまだ青森が500町歩ほど上回っていますが、10アール当たりの平均単収を比べると、青森の2.6トンに対して、北海道は3.6トン。4トン穫っている農家も少なくありません。青森のナガイモがトップを維持するためには、単収を上げるしかありません。青森でも4トン以上の収穫を上げている農家はいます。そういう人たちは、成功している人のやり方を学んだり、北海道のいいところを取り入れたり、それを自分なりに整理したりと、熱心に研究しています。ところが、安易に面積を拡大することで単収の低さを補おうとする人もいます。それはそれで考え方の一つですが、それでは経費も拡大していくわけです。私はいつも「まずは自分の持っている面積の中で、単収を上げる努力をしなさい。そしてしっかり4トン穫れる技術をマスターしてから、拡大するなら拡大すればいい」ということを農家に話しています。

 機械を導入することで、間違いなく人件費を大幅に減らせますし、家のおじいさん、おばあさんにもできるよう作業を軽減することもできます。そうした形でうちの機械を活用してほしいと思います。ただ私は、米が儲かるからと水田をどんどん拡大した末に、減反政策や生産者米価が下落した時代を経験してきました。ですから、うちの営業にはよく怒られるのですが、若い農家には「買ってください」ではなく、「買えるのか?」と聞くことから始めています。先が見えないのだから、ローンではなく現金を持ってから買いなさいということです。補助事業を導入するのもいいですが、補助金でセットであれもこれもと買ってしまって、それに合わせた農業のやり方をするというのは本末転倒です。必要ないほど大きなトラクターを買えば、それに見合う大きな機械を買わなければいけない。悪循環なわけです。惜しまず努力して、しっかり技術を身に付けてから、町なり県なりに補助を求めるべきでしょう。最初に「いい補助事業はないですか」と言うのは、何か違う気がします。

 農家は、まずは真摯に技術を身につける努力をし、背伸びせず堅実な規模でやれる工夫をしていく。そのために、うちの機械を活用してほしいと思いますし、その役に立てるよう、これからも農家の話をよく聞き、農家に「さすが」と言われるようなものづくりを続けていきたいと思います。