あおもり昆虫記
ヒオドシチョウ

 春には、においがある、と思う。

 何だかよく分からないが、土が乾燥するにおいなのだろうか。なま温かい春風に乗って鼻腔をくすぐるあのにおい。冬期問、においの無い世界で生活を送ってきたからこそ、敏感になるのかもしれない。

 というわけで、春のにおいの中、野山を歩き回るのが好きだ。そんな時、よくお目にかかるのがヒオドシチョウだ。漢字で書くと緋鍼蝶。緋色の鎧のようなチョウという意味だ。太い体、力強い飛翔。そして濃い橙色と黒の渋い配色。まさに、武者のイメージとぴったりだ。

 やわらかな春の陽ざしの中を飛ぶヒオドシチョウは、成虫のまま越冬したものだ。羽の縁が破れ、自慢の橙色もさめており、越冬の厳しさを物語っている。さしずめ“落武者”といったところだ。だが、落武者の悲愴感は無い。と、感じるのは、わたしが春に浮かれているから、そう見えるのだろうか。いやいや、そうではない。春の陽ざしの中を勇ましく飛ぶヒオドシチョウは喜んでいるように見える。

 1983年の4月下旬。わたしは弘前市の南にある久渡寺山に登った。頂上で疲れをいやしていたら、ヒオドシチョウがのんびり日光浴を決め込もう、とわたしの目の前に舞いおりた。カメラを構え、羽を広げているところを撮ろうとした。ところが、わたしを警戒してなかなか羽を広げてくれず、黒一色の羽裏を見せるだけ。ファインダーをのぞきながら何10分も待ったような気がした。

 すると思わぬいたずら者が現われた。アリだ。地面を精力的に歩き回っていたアリはヒオドシチョウの目の前に来た。一瞬、間をおいてアリはチョウの前足にやおら噛みついた。驚いたチョウはパッと羽を広げた。反射的にぼくはシャッターを切った。

 写真が出来上がるのが楽しみだった。てっきり、チョウの足を噛んでいるアリの姿が写っているものと思っていたが、アリのお尻の一部と足の一部しか写っていなかった。何10分の1秒かのシャッターを押すタイミングの遅れが原因だった。二度とこんなチャンスに巡り合うことは無いと思うと残念でならない。

 ところで、ヒオドシチョウには大きな謎がある。初夏に羽化して成虫になるはずなのに、年内−つまり初夏、夏、秋、初冬…と姿が見えないのだ。春になれば、あんなにたくさん飛んでいるのに。虫の本を見ていたら、こんなことが書かれていた。

 「ヒオドシチョウは、6月ごろ羽化し、しばらく活動しているが、その後急速に姿を消してしまう。暑い夏を寝て過ごし、涼しい秋すら寝て過ごし、寒い冬もまた寝て過ごす」。本当だろうか、と目を疑った。なぜ、そんなに寝てばかりいるのだろうか。寝ることが、チョウにとってどんな利点があるのだろうか。

 寝て暮らしているから、わたしたちの目に触れないわけだ。でも、その記述を書いた人は、ヒオドシチョウが寝て暮らしているのを見たことがあるのだろうか。にわかには信じられない。わたしにとっては依然、謎のままだ。

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