あおもり110山
(やがたいしやま  586.9m  外ケ浜町(旧三厩村)・中泊町(旧小泊村))
 
■ 幻の津軽半島縦貫道路

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鋸岳山頂から見た矢形石山。穏やかな山に見えるが、厳しいやぶこぎで登らなければならない=1997年10月17日
 登山道の無い矢形石山に登り、いったん山頂に着いてから、さらにやぶをこいで西に向かって尾根を歩いていたときのことである。

 突然、ブナの木に打ち付けられた金属の表示板が目に入った。「16」の数字。ただ、設置者の名は風雪のため消えて読み取れなかった。緑一色の森のなかで黄色の表示板はやたらに目立った。何よりも、全く人が歩いていないだろう、と思っていた所に人跡があったことに驚かされた。いったい何だろう。キツネにつままれた気持ちで、その日は下山した。

 後日、袴腰岳−大倉岳間の尾根(蓮田村と金木町の町村境)を歩いていたとき、「62」「70」など同じ表示板を見つけた。今度は設置者の名が読めた。「津軽半島縦貫道路建設同盟会」。そして「第五連隊」の字も。

 びっくりしたことに、同盟会はまだ存続、事務局は五所川原市役所にあった。企画課課長補佐の横山敏美さん(47)は「古いことなので市役所でもよく分からないんですよ」と困った表情を見せながらも経緯を説明してくれた。

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津軽半島縦貫道路予定線に自衛隊が65年に設置した表示板=1997年7月19日、矢形石山山頂付近
 それによると、同道は三厩村の竜飛岬から津軽半島の背骨を通り浪岡町大釈迦に至る70キロという遠大な構想だ。1963(昭和38)年、同縦貫道を津軽半島振興の核とするため2市7町5村の期成同盟会(会長・千葉元江青森市長)が発足。65年には陸自第5連隊レンジャー部隊が予定路線を踏破、100枚の表示板を設置した。今も矢形石山山頂近くに残っている表示板はそのうちの1枚だ。

 その後、実現の可能性が少なくなったため87年、同盟会を残しながらも同会を構成している市町村から負担金を取ることをやめた。五所川原市は、同盟会の意向をくんで毎年、県に同縦貫道の調査を重点要望してきたが、99年度要望から取り下げた。「負担金徴収を中止した段階で同盟会は無くなったのと同じ。今の時代、環境問題で実現は可能なものだろうか…」。横山さんの歯切れは悪い。

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矢形石山をめざして密生したササやぶをこいで登る登山者=1997年11月8日
 この縦貫道構想の発案者は前五所川原市長の佐々木栄造さん(78)だった。「県議時代から津軽半島の過疎対策としてこの道路が必要だ、と訴え、県議会一般質問でも取り上げた」。62年に市長に就任してからすぐ同盟会を組織、運動を起こした。

 構想に賛同した当時代議士の津島文治氏を梵珠山山頂に案内したこともある。「山崎岩男知事、北村正■(「哉」の「ノ」がない字)知事も評価してくれた。木村守男知事は代議士時代、公約に入れてくれた」。自衛隊がルートを踏破したとき、佐々木さんは大釈迦に「100」の表示板を設置した。一時、県議会が議員全員による発議で建設議案を可決するところまでいったが、別の問題で議会が紛糾し議案が流れた。「これが一番残念だった。可決していれば展開が違っていたかもしれない」。佐々木さんは、今でも悔しがる。「それでも」と佐々木さんは言う。「道路は日の目を見なかったが、ルート沿線に自然休養林や県民の森ができるなど波及効果はあった。構想は無駄ではなかった」 自然保護が叫ばれる今、津軽半島を縦断する道路の実現は考えにくい。県道路建設課も「検討の対象にもなっていない。できないと思う」と言う。矢形石山山頂付近の表示板は、高度経済成長時代の夢の跡とでもいえようか。

<メモ> やぶこぎ1時間で山頂へ

 ガイドブックなどの中には、矢形石山ハイキングコースと書かれたものがあり、「矢形石山登山口」という標識もある。しかし、登山道は鋸岳の少し先までしか無く、その先は背丈より高いササやぶだ。やぶをこいで尾根に登ると、かん木が密生している。これを突破し、さらにササやぶをこぐと山頂に着くが、眺望は得られない。やぶこぎは約1時間。目印テープやコンパスを持たないと、帰りに迷う。経験者の同行が必要だ。

(1999/03/20 東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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