あおもり110山
(てんのうざん  56.7m  木造町=現つがる市)
 
■ おそれ親しまれて…

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スイカ・メロン畑の向こうに望む天皇山。木造町最高峰だ=1997年7月18日、鯵ヶ沢町北浮田の国道101号から
 すごい名の山があるものだ。全国でも天王山という名の山はいくつかあるが、天皇山は木造町だけにしかない。

 屏風山地帯の南に位置、遠くから見ると小高い丘のように見える。それでも木造町で最も高い山だ。登山口から数分で山頂に着く。

 地元にはこんな言い伝えがある。

 「壇の浦での源平の戦いで安徳天皇は、二位の尼(平清盛の妻で、天皇の祖母)に抱かれて海に身を投じたことになっているが、投身したのは実は安徳天皇ではなく、安藤水軍の将・塩飽次郎左衛門の子辰丸だった。安徳天皇は安藤水軍にかくまわれて津軽に逃れ、天皇山に宮をつくりそこに住んだ。ところが、津軽の冬の寒さに驚いた安徳天皇一行は、安藤船に乗って中国に渡った」  天皇が絶対的だった時代もその名で呼ばれていたのだろうか、と疑問に思い、大日本帝国陸地測量部(現国土地理院)が1912(大正元)年に測量した地図を調べてみた。天皇山としっかり記されていた。少なくとも明治時代からそう呼ばれ、“改名騒ぎ”もなく今に至っている。

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地域のお年寄りの憩いの場になっている山頂の稲荷神社拝殿=1997年6月24日
 木造町は以前、天皇山を観光の目玉として売り出そうと考えたことがある。が、県から「トラブルの恐れがあるから控えるように」と言われ、伝説などを観光パンフレットに記載するのはやめた。「尋ねられない限り、余計なことは言わないようにしている」。役場は、やや及び腰だ。

 屏風山地帯は75(昭和50)年、国定公園に指定され天皇山一帯は伐採や開発行為が禁止される第1種特別地区になった。天皇山を含む縦砂丘(海岸線に直角に延びる砂丘)が珍しいためだった。

 天皇山一帯は昔から同町越水地区の共有地として使われてきた。いま、共有地を管理しているのは同地区の農業吉田竹美さん(63)だ。「昔は1カ所につき30年に1回、まき用に木を伐採した。今は切られなくなったからカシワやイタヤがすっかり大きくなってしまった」

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天皇山の登山道・参道。よく整備されている=1997年6月24日
 吉田さんは「なぜ天皇山と名がついたのか、深く考えたこともなかった。ただ、戦前と戦後しばらくの間、地元の人たちは天皇山と口にしなかった。おそれ多かったし、国に迷惑がかかると思ったからだ。山頂にある高山稲荷神社にちなみ、高山と呼んでいた」と、地元の人たちの山に対する気持ちを代弁する。

 “重い”山名とは裏腹に、山頂の神社の拝殿は、地域のお年寄りたちの憩いの場になっている。「月1回、おばあさんたちが弁当を持って集まり、一日中おしゃべりをして夕方帰っていく。家にいる嫁に息抜きさせる要素もある」と吉田さんは言う。

 98年3月まで越水小校長で現五所川原市南小校長の福士光俊さん(57)は 「天皇山一帯は、子供たちが自然から学ぶのに最高の環境。ふるさと学習のため、子供たちを学校で連れて行ったこともある。が、天皇山の名の由来について、教育では触れなかった。なぜ天皇山と名付けられたのか、本当になぞが多い」と話す。

 皇太子さまの趣味が登山のため、天皇山に対する感想をお聞きしようと宮内庁報道室に手紙を出した。後日、同庁職員から電話が来た。「私個人(職員)としては天皇山の存在は知っています。こちらの役所としての見解はとくにございません」

<メモ> わが国最初の防砂林事業

 天皇山を含む屏風山一帯に広がる防砂林は、木で砂を防ぐわが国最初の事業だった。津軽藩4代藩主信政は新田開発のため1682(天和2)年、野呂理佐衛門(現木造町館岡)に植林を命じた。1700年代半ば、防砂林は86万本に達したが天明の飢きんの際、木を伐採して売ったりし、一時3万本までに減った。野呂武左衛門は1863(文久3)年から復興に努め1874(明治7)年までに180万本の林を完成させた。

(1998/5/2 東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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