あおもり110山
(しみずまただけ  556.2m  蟹田町=現外ケ浜町)
 
■ トドマツ食樹思い出に

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1990年に大山小児童が植えたトドマツを見る成田さん。「これからぐんぐん伸びるだろう」という=1999年5月6日
 蟹田町の大山小学校が1999(平成11)年3月、蟹田小学校に統合された。山あいの大平地区と山本地区の子供たちが通った大山小。学校は無くなったが、子供たちが清水股岳登山口に植えたトドマツは枯死することなく生長、大山小があったあかしとして残っている。

 森に接している大山小は森林教室を開き、学校の近くに植樹したり、清水股岳に登ったりしてきた。また、登山をしなくなってからも初夏に清水股岳ふもとの清水股沢に全校で炊事遠足に出掛けるなど、森と親しんできた。

 大山小にとって身近な存在だった清水股岳。90年、蟹田営林署(現青森森林管理署蟹田事務所)から、その清水股岳で植樹をやりませんか、との誘いがあった。「子供たちに森林に関心を持ってもらおう、と呼び掛けたんです」と当時、植樹に携わった署員は話す。

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蟹田町山本地区から見た清水股岳=1997年7月19日
 植樹は、3年生以上の24人が参加し同年10月12日に行われた。営林署が準備を整え、子供たちは11本のトドマツを植えた。そのあと子供たちは清水股岳登山を目指したが、なぜか道に迷い、山頂を踏めなかった。

 子供たちにとってこの森林教室は印象深かったようで、この年の文集に4人が森杯教室について書いた文章を寄せた。このうち、当時五年生の張山亜由美さん(19)は次のような文を書いた。

 「…みんなが楽しみにしていた森林教室でした。緑だった山が紅葉にそまり、とてもきれいでした。…項上まで登れなくてとても残念でした。…植えた木がどれだけ大きくなっているか楽しみにしています…」

 張山さんは青森東高を経て東京のコンピューター関係の会社に就職した。登れなかった清水股岳に翌年登り、念願を果たした、という。「きつい登山でしたが、山頂から見た風景は今でもはっきり覚えています。下北半島や北海道も見え、それまでの疲れが吹き飛ぶようなすがすがしさを感じました」と振り返る。

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清水股岳登山道に群落をつくっているマルバフユイチゴ=1997年9月13日
 森に囲まれた蟹田町大平で過ごし今、東京の空の下にいる張山さん。「東京に住んでいても山などを見ると、たまにですが、実家の周りの風景や清水股岳を思い出したりします。遠足でよく行き、友達と下の河原で遊んだ身近な山でしたから。帰省したとき、山頂からの景色をもう一度見てみたい、と思います」。どんなに離れていても、心の引き出しに“ふるさとの清水股岳”は入っている。

 大山小の清水股岳での植樹は、90年の1回きりだった。しかし、営林署はその後も植樹した一帯の下刈りを続け、木の世話をしている。子供たちが植えた木は、多くの人たちの温かいまなざしに見守られているのだ。

 清水股岳の登山道の刈り払いを毎年2回続けてきたのが99九年3月、営林署を退職した成田逸也さん(60)=蟹田町大平区長=だ。「ハイキングコースになっているので、営林署が刈り払いをしている」。トドマツの高さは現在約2メートル。「生長はあまり良くないが、樹勢がついてきたので、これからはぐんぐん伸びるだろう」 そして 「この木はものすごく記念になる。学校が無くなったんだから。時がたつほど『ああ、この木は大山小の子供たちが植えたんだ』と懐かしく思うだろうなあ」と言った。成田さんも大山小の卒業生である。

<メモ> 砂鉄で弘前城のくぎ生産

 蟹田町の郷土誌によると「津軽藩は弘前城築城のため1610(慶長15)年、清水股で製鉄事業を始めた」という。地元の人は 「製鉄跡はまだ残っている。清水股沢の砂鉄を製鉄し弘前城のくぎを作った」と話している。製鉄には多量のまきが必要で、森林が豊かな同地が製鉄適地だったようだ。大山小は1905(明治38)年開校、99年3月の閉校までに1011人の卒業生を送り出した。最大児童数は62年の167人。

(1999/06/12 東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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