あおもり110山
(おおくらだけ  677m  蓬田村・五所川原市=旧金木町)
 
■ 手造りの避難小屋守る

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ブナ林の中にひっそりと建つ“手造り避難小屋”。積雪期の利用を考え、高床式にしている=1997年8月6日
 阿弥陀川の登山口から歩き始めて約1時間。ちょっとした急坂を登り詰め尾根の肩に出ると、ブナ林の中に避難小屋がある。ここまで来れば大倉岳山頂はもうすぐ。つい休みたくなる、登山者にはうれしい小屋だ。

 県内は低い山が多いためか山小屋(避難小屋)のある山は少ない。あったとしても、県または市町村が造ったり、団体が業者に委託して建設したものがほとんど。その中にあって大倉岳の小屋は、山の仲間たちが自力で造り上げた。大倉山好会の会員で蓬田村企画課長の山館建さん(51)は「設計、資材集め、荷上げ、建設を全部自分たちでやったのは、県内でも私たちぐらい」 と言う。

 山館さんが、会長の津島永孚さんらと13人で山好会をつくったのは1975(昭和50)年。「仲間と一緒に山に行きたかった。そして、地元の山を知ることが大切だと思ったから」−が結成の理由。結成の趣旨の通り、1年間に最低でも1回は大倉岳に登るのが会員の資格だ。

 76年の正月。山館さんと津島さんは大倉岳に登り、テントの中で考えた。「小屋を造ると、行動範囲がもっと広がるのでは」と。

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姿が良い大倉岳。県内のかなりの所から山頂が見える=1999年4月29日、赤倉岳山頂から
 すぐ実行に移した。場所をいろいろ検討した結果、大倉岳と赤倉岳の中継点になる現在地を小屋の建設場所に選んだ。そして同年三月、ドラム缶を上げて雨水をためることから始めた。コンクリートの基礎を打つとき、水が必要になるためだ。

 資金は無い。このため角材、窓、扉などの材料は、解体する家がある、という情報を聞けば会員が駆け付けて手伝い、そのお礼としてもらい受けた。仕事が終わると作業場へ直行し、設計図を見ながら角材などを寸法通りに切る作業を夜遅くまで続けた。

 材料がそろうと、建設現場への荷上げが始まった。会員だけでは人手不足のため、県内の山のグループ6団体や役場の若手職員にも呼び掛け、協力を求めた。砂や石は石油缶に入れて背負い、角材は肩に座布団を当てて担ぎ上げた。「毎日山にばかり登っているようなものだった」と山館さんは振り返る。

 こうして同年10月、5.4m×4.5mの小屋が完成した。「出来たときは感激した。お祭り騒ぎだった」と山館さん。小屋が出来たことで、秋の十五夜をはじめ、小屋で集う機会が増え、冬でもこの小屋を拠点に袴腰岳にも足が延ばせるようになった。

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山頂からは蓬田村、水田、陸奥湾などがよく見える=1997年7月13日、大倉岳山頂から
 もちろん、会員でなくても利用できる。小屋に置いてあるノートを見ると、県外の登山客が多く利用しているのに驚かされる。とくに冬場の利用者が多い。

 完成から20年余。小屋はだいぶ傷んできた。会員はその都度マメに修理し、大事に使っている。小屋建設の腕を買われ、北八甲田の大岳と仙人岱の小屋の補修を頼まれたことがある。

 山好会の会員も33人に増えた。役場の新職員はまず同会に入り、ふるさとの山を知ることが義務付けられているという。同会は、海外や県外の山にも登るなど行動範囲を広げている。しかし、結成時の趣旨を守り、今でも毎年必ず大倉岳に登ることは続けている。

 「やっぱり地元の山ですから。蓬田村のシンボルであり、心の支えなんです」。山館さんは誇らしげに語った。

<メモ> ほこら創建に縁起2説

 大倉岳の山頂にほこら(大倉岳神社)がある。青森市後潟の人たちが1930(昭和5)年に創建したものだ。(1)後潟営林署担当区主事が夢で「われは大倉岳山頂の神・木花開耶姫である」とお告げを受け、これを聞いた後潟の人たちが奉納(2)世界大恐慌を受けた経済の浮揚と人心の不安一掃のために奉納−と創建縁起に2説ある。例大祭は8月17日。後潟神社境内に大倉岳神社の拝殿があり、今も同地区がほこらを守っている。

(1997/10/11 東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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