あおもり110山
(もややま  152.4m  市浦村=現五所川原市)
 
■ お山参詣 脈々と続く

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御幣をたなびかせ「さいぎ、さいぎ」の声を響かせながら、靄山に向う市浦村脇元、磯松の人たち=1998年9月21日
 1998(平成10)年9月21日(旧8月1日)。岩木山で盛大にお山参詣行事が行われているころ、市浦村脇元地区の靄山でも「さいぎ、さいぎ」の声が響き渡った。

 ヒバの御幣を先頭に白装束に身を包んだ約200人は磯松、脇元地区を練り歩き、靄山中腹のほこらに御幣を奉納した。ふもとの特設会場で、子供たちの駒踊りなどアトラクションが繰り広げられているころ、山頂の脇元岩木山神社では例大祭が執り行われた。特設会場ではさらに、登山ばやし披露、丸太切り競争、手踊りなどが続き、出店も。参拝者は、心行くまで秋の一日を楽しんでいた。

 靄山のお山参詣は昔から行われてきたが戦後、まつりを支えたのは脇元地区の婦人会だった。男たちがニシン漁などで長期間、家を空けるため婦人たちが伝統を守ったのだった。そのころ、御幣の一部に昆布が使われた。北海道に出稼ぎに行っていたあかしである。

 が、その婦人たちが高齢となったため65(昭和40)年ごろから青年団中心の実行委員会方式になり、まつりを盛り上げた。そして20年前ごろから前夜祭やアトラクションも組み入れる今のスタイルが確立された。しかし、まつりがにぎやかになった半面、それまで山頂に運んでいた御幣が中腹までしか行かないようになった。

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参拝者らでにぎわう、お山参詣当日の靄山山頂=1998年9月21日
 約20年間、まつり事務局を担当してきた同村脇元の葛西達也さん(40)=村教委主任主査=は「事務局をやってみて、自分たちのまつりじゃなく地域のまつりだ、ということを痛感した。だからみんなに参加してほしいと思い、いろいろ企画した。最初はお山参詣で村おこしをしよう、と考え、無理していろいろな行事を組んだが、うまくいかなかった。そのとき 『昔のスタイルを守ればいいんだ』とはっとわれにかえった。以来、それを基本にしてきている」と振り返る。

 お山参詣のはやし方がいなかったので、中里町の公民館で開かれた講座に10人を通わせ、習得してもらったのも、昔のスタイルを守ろう、という意気込みの表れだ。「お山参詣は脇元地区のバックボーンだと思う」。葛西さんはしみじみ言う。

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整った姿のためさまざまな伝説が語られている靄山=1998年9月21日、市浦村熊野神社付近から
 岩木山でご来光を拝む人がいるのと同じように、靄山にもご来光をめぎして登る人がいる。同村相内の笹山文子さん(49)がその1人。96年から3年連続で山頂からご来光を拝んでいる。「靄山の下で木材業を営んでいるので、この1年間の無事故のお礼をするとともに、向こう1年間の無事故と商売繁盛をお願いしている」

 約20分かけて登った山頂で同村脇元の三和淑(とし)さん(52)と出会った。白ズボン、白シャツ、白鉢巻き姿だ。勤務先の縫製工場が「まつりに協力するように」とまつり当日を休日にしてくれたため登山ができた、という。

 「霜山は、子供のころの遊び場だった。今日は登れてさっぱりした。村に何事も起きないように、家族が健康でありますように、とお願いした」と話す三和さんは、とてもうれしそうだ。

 帰りに三和さんの家に立ち寄った。家から海越しに岩木山が真っ正面にそびえていた。「靄山は姉、岩木山は妹といわれているんです」。地元を誇りに思う気持ちが、この言葉に凝縮されている。

<メモ> かつて「3月25日」の行事

 靄山にはかつて「3月25日」という行事があった。同村脇元の葛西達也さんによると旧3月25日、同地区の小学生までの子供たちが授業を午前中で終わり、親が準備してくれた重箱を持って靄山と北のお不動さまに登る。山頂で条幅に「天下太平 菅原運真公」と筆で書き、ササにつるしたものを山頂に立てた。下山の途中、各人がやぶの中に休憩場所を作り、そこでごちそうを食へた。この行事は約30年前にすたれた。

(1998/11/14 東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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