あおもり110山
(ぼうずだけ  494.7m  今別町)
 
■ 牧場造成で様変わり

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野下げの朝。これから農家に引き取られる牛は悠然と牧草を食べていた。後方右端は竜飛崎=1997年11月10日、山崎牧場
 1997(平成9)年11月10日。坊主岳の西ろくに広がる今別町営山崎牧場に、6人の畜産農家が集まってきた。春から放牧していた牛を家に連れて帰るためだ。広い牧場で体を鍛えた雌牛は、良い素質を持つ雄牛の精子の人工授精を受け、おなかにこどもを持っている。

 牧場に散った6人に追われた牛は1ヵ所に集められ、飼い主に引き取られていった。冬から春にかけて農家の畜舎で生まれた子牛は、大事に育てられ十和田市と木造町(現つがる市)の子牛市場に出荷される。そして全国の肥育農家が育てる。

 「これから忙しくなるが、牛飼いは生きがいだ。牛は友達。子牛は本当にかわいい。孫みたいなもの」。同町関口の畠山清隆さん(57)は自分の牛を優しくなでながら、うれしそうに語った。

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坊主岳山頂から、かん木越しに見た津軽海峡と北海道=1997年12月25日
 同町は「今別牛の銘柄を確立しよう」と65(昭和40)年から88年まで、さまざまな事業を入れて坊主岳のふもとに牧場を整備、現在の規模は173.6ヘクタール(うち101.6ヘクタールは国有地)。

 60年ごろまでは、町内で牛を飼っている人はいなかったが、牧揚を造り、町が 「菊と和牛の町」を標ぼうし飼育を奨励したため、黒毛和種を育てる農家が増えた。一時、飼養農家は50戸を超え、牧場の1日の最大放牧頭数も300頭を数えたことがあったが、今は飼養農家は18戸に減り、一日の最大放牧頭数も約70頭となっている。

 戸数が減ったのは高齢化、頭数が減ったのは人工授精で“少数精鋭”生産に移ってきたためだ。子牛の生産・出荷が主のため、当初掲げた「今別牛の銘柄確立」はまだ実現していない。「町としては、繁殖・肥育の一貫経営で銘柄を確立したいのだが、今のところ肥育牛の出荷は少ない。課題は多い」と町産業課の小鹿康弘さんは話す。

 牧場造成のあたりを境に、坊主岳と地元の人々とのかかわりは大きく変わった。

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牧場内の道から見た坊主岳。中腹から上はブナで覆われている=1997年12月25日
 坊主岳は以前、同町山崎地区と村元地区の薪炭供給林だった。坊主岳は斜面が急だ。このため、材の運び出しは困難を極めた。同町山崎の太田誠之助さん(80)は 「冬の間、まきにかかりっきりだった。あの当時、よく頑張ったものだ、と今でも坊主岳を見ながら妻と話したりするんです」と振り返る。

 男たちは山に雪が積もれば大きなのこぎりを持って、ブナの伐採に行く。切る木は営林署が決めた。旧正月までに伐採を終え、正月明けから運び出しにかかる。この作業には女も加わり春まで、そりで木材を海岸に運んだ。

 海岸では、田植えの前までかかってまきを割り、馬車で運び家の周囲に積んで乾燥させた。こうして各戸は7−8たな(1たな=1.8メートル×1.8メートル)のまきを確保した。燃料が灯油に代わる65年ごろ(牧場造成のころ)までこの作業が続いた。

 山崎地区は、坊主岳の沢水を利用した簡易水道を使っていたが、牧場造成とともに上水道に切り替わった。また山ろくには、良質のササやぶが生い茂り、2メートル以上もある竹は、稲を乾燥させる“しま立て”に利用された。が、ササやぶは牧場に変わった。

 「坊主岳がわれわれに与えてくれた恩恵は計り知れない。生まれたときから、朝から晩まで坊主岳を見ているが、岩木山に負けないくらい良い山だ」。太田さんは、誇らしげに語った。

<メモ> 一直線に延びる登山道

 坊主岳の登山口は、牧場の上端付近にある。登山道は、急な斜面に一直線に延びている。ブナ林を楽しみながら登っていくと、やがて道が無くなる。そこからはやぶこぎで登る。今別町山崎の太田誠之助さんは小学生のとき、大泊小山崎分校の遠足で3回登った。「当時は、山頂からの眺めが抜群で感動した」と言うが、今はやぶで見通しが利かない。山頂まで約40分。山頂には、1973年に設置された四等三角点がある。

(1998/2/14 東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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