あおもり110山
(やすてやま  564m  平川市=旧平賀町)
 
■ 消えたヒメギフチョウ

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尾根が長い矢捨山。かつて矢捨長根山と呼ばれた=1998年4月18日、平賀町軍馬平の津軽高原ゴルフ場から
 「1994(平成6)年4月24日、雄1匹、雌2匹を見たのを最後に矢捨山でヒメギフチョウの姿を見ていない」。矢捨山でヒメギフチョウのフィールド調査を長年続けてきた弘前市石川の電気工事業「虫電」の工藤周二さん(45)は、すこし怒ったような口調で話し始めた。

 ヒメギフチョウはアゲハチョウの仲間で、アゲハよりかなり小さい。春先に現れるため「春の女神」「春のはかない命」とも言われ、チョウ愛好家の間では最も人気の高いチョウの一つだ。生息場所が限られていることや数が少なく美しいことが人気を集めている要因だ。

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カタクリのみつを吸うヒメギフチョウ。今は矢捨山から姿を消した?=1987年4月29日、矢捨山中腹で撮影
 かつて、本県に生息するのかどうか議論になり、研究者が懸命に探した。その結果、49(昭和24)年に平賀町滝ノ股で初めて採集され、本県にも生息していることが確認された。発見者は、本県の昆虫研究のさきがけ下山健作さんだった。

 矢捨山でヒメギフチョウの発生が確認されたのは56年のことだった。研究者や愛好家が調べた結果、矢捨山は本県でのヒメギフチョウの最大の産地であることが分かった。それ以降、春になれば県内外の愛好家が矢捨山に足を運ぶようになった。愛好家の間では矢捨山というと、瞬間的にヒメギフチョウを連想したものだ。

 平賀町新屋出身の工藤さんは小学校に入る前から昆虫に親しみ、小学4年からチョウの採集を本格的に始めた。中学1年のとき、矢捨山山ろくで初めてヒメギフチョウを採った。「あこがれのチョウだったから、採ったときは手が震えた」。以来、ヒメギフチョウの生活史の研究にのめり込んでいった。毎年、補虫網を最初に振るのは矢捨山と決めるほど入れ込んだ。

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植林の杉が伸びてきて眺望が利かなくなった矢捨山山頂=1998年4月18日
 高校を卒業したとき、中腹にテントを張り、自炊をしながら一週間ぶっ続けでヒメギフチョウの生活史を調べた。「そのとき、羽化したてで羽がまだ伸びきらない雌に雄が飛来、交尾したのを見つけた。まだだれも知らない事実だった」

 当時は「1カ所に座っていると40−50匹も近くを飛んで行ったもの」と言うが、食草のウスバサイシンが生えている雑木林が杉林やリンゴ園に変わるにつれて生息場所が徐々に狭まっていった。

 そして、姿を見せなくなった直前には、羽の脈や紋に異常が見られるようになった。「多分、個体数が少なくなったため近親交配で血が濃くなり異常型が現れたのではないか。絶滅の典型的なパターンだった」

 そして「“最後のとりで”は志賀坊公園一帯だったが、食草の大きな株が遊歩道建設で無くなったのが決定的なダメージとなった」と工藤さんはみる。姿を見せなくなっても、工藤さんは矢捨山に通い続けている。“再会”への淡い期待を胸に毎日のように全部のポイントを歩いている。が、98年も出会えなかった。

 「自分にとって矢捨山の存在は大きい。チョウの面白さを教えてくれ、人生を変えた山なんだから。ヒメギフチョウがいなくなったのは寂しい話だ。悔しいよ」と工藤さんは表情をゆがめた。

 嘉瀬沢林道の終点付近から杉植林地の斜面を枝につかまりながら直登したら、ほどなく山頂に着いた。かつて眺めが良かった山頂は、杉林で眺望が利かなかった。

<メモ> かつては馬用の草刈り場

 平賀町広船の農業小笠原祐三さん(72)によると矢捨山一帯は藩政時代から、馬用の草刈り場だった。唐竹地区の所有地だったが、広船地区が入会権を設定し長年草刈り場に使用し戦後、唐竹地区から払い下げを受けて使ってきた。毎年お盆のころに草を刈り、山で4−5日かけて乾燥させ、冬場の馬のえさとして蓄えた。昭和40年代まで草を刈ったが、農作業の動力が馬からトラクターに代わってからは杉の植林が進んだ。

(1998/6/13  東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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