あおもり110山
(とわだやま  664.1m  大鰐町)
 
■ 稲作の豊凶を占う沼

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戸和田貴船神社の奥宮で、豊作や家内安全を祈る参詣客。この近くに稲の豊凶を占う沼がある=1997年5月25日
 目指す沼は、標高500メートル地点にあった。1997(平成9)年5月上旬の集中豪雨で土砂が沼に流れ込み、水は乳白色に変わっていた。一行から「こんなことは初めてだ。“もち”はあるんだろうか」と不安の声が漏れた。

 “もち”とはクロサンショウウオの卵塊のこと。津軽地方の稲作農家は藩政時代から、大鰐町・戸和田貴船神社の奥宮の前にある沼に産みつけられた卵塊の位置で稲作の豊凶を占ってきた。その卵塊が土砂で埋まっていれば大変だ。が、いくつかは残っており、一行を安心させた。

 同神社例大祭の旧4月19日はかつて、卵塊の位置を確かめようという農家でごった返した、という。その名残が今も細々と続いている。

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地元の人が“もち”と呼んでいるクロサンショウウオの卵塊=1997年5月25日
 例大祭にあたる97年5月25日の午前8時、大鰐町三ツ目内の木工業岩淵安孝さん(49)の家に、地区の人たちが三々五々集まってきた。その数約15人。高齢のおばあさん、若夫婦、農家…。みんなこの日を心待ちにしていた様子だ。

 登り始めたら、それまで降っていた雨がぱったりやんだ。“ご神体”をさらしに巻いて背負った人が先頭を行く。斜面は急だがジグザグに道がついているためきつくない。みんな早足だ。おばあさんも足が達者だ。45分ほど歩いて沼に着いた。

 沼の変わりようにびっくりした稲作農家の木田文弘さん(72)が、さっそく沼の岸辺に下り、卵塊の位置を確かめた。「今年は中生と晩生の稲がいいようだ」。ほっとした表情を見せ、にっこり笑った。

 (1)水口の浅いところに卵塊が付くと早生が豊作(2)下方の深い所に多く付くと晩生が良い−などの“定説”があるが、各人自分なりに判断しているようだ。

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訪れる人がいない山頂。手前は三等三角点=1997年6月5日
 「50年間ほとんど来ているが、よく当たる。(信じる)気持ちなんだろうなあ。ここで拝むと安心して働けるよ」と木田さん。自然を敬いながら農業に携わる姿勢がここに残っていた。

 同神社は古くから水の神様として信仰が厚く、藩政時代には干ばつのとき、寺社奉行が雨ごいをしたこともある。

 57−58年ごろまで、参詣者で大変なにぎわいだったという。「沼の近くにそば屋の出店が立ち、立ったままそばを食べなければならないほど込み合った。三ツ目内地区にはサーカス小屋も立ったものだ」と木田さんは懐かしむ。

 また大鰐森林事務所の幸山兼廣さん(51)は「三ツ目内や高野新田地区の各戸は、見ず知らずの参詣客も家に招き入れて食事などを振る舞った」と振り返る。

 「小学生のころ、先輩に誘われ、高野新田から登山口まで森林軌道を利用して、高齢の参詣客をトロッコに乗せて運んだものだ。登りは手で押し、下りは手動ブレーキ。料金は登りが1人50−60円、下りが30円だった。けっこうなお金になったものだ」とも。

 沼から山頂まで道は付いていない。例大祭の10日後、幸山さんに案内してもらって山頂を目指した。ヒバ林の急斜面を低木やシダにつかりまながら直登する。たちまち息が上がる。

 約30分で山頂に着いた。広い台地、うっそうとした林。眺望はきかない。どこが山頂か分からないほどだ。参詣客も地元の人も訪れない山項は、ひっそりと静まり返っていた。

<メモ> 昭和16年以前は「戸和田山」

 大鰐町町史編纂委員長の船水潔さんによると、古文書に十和田山の山名が初めて登場するのは1470(文明2)年で、戸和田山と表記されていた。大日本帝国陸地測量部が大正4年に発行した5万分の1の地図でも戸和田山。が、昭和16年発行の地図から十和田山に変わり現在に至っている。神社名は変わらず戸和田貴船神社だ。2種類の表記があることについて町役場は「町民は違和感を持っていないようだ」と話している。

(1997/8/9  東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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