あおもり110山
(たかだてやま  233.8m  弘前市=旧岩木町)
 
■ 大正期、兼平石で繁栄

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こんもりとした森の高館山(左)。手前はリンゴ園。一面草地だったかつての面影はない。右は岩木山=1997年10月2日、アップルロード付近から
 「ここが高館山だ」。アップルロードから少し南に入った所で岩木町兼平の渋谷清衛さん(76)が教えてくれた。高館山の名は以前から知っていたが、一帯は、似たような山が連なる丘陵地帯のため、どれが高館山なのか、それまで分からなかった。

 辺りを見回すが、道はありそうもない。薮をかき分けて登ることにした。約10分で山頂に着いた。山頂は台地になっており、杉、アカマツ、カラマツの混交林で覆われていた。残念ながら眺望は得られなかった。

 高館山一帯は30−40年前まではこのような森ではなく、各戸で飼っている牛や馬のえさを刈る採草地だった。草を刈り終わる10月ごろになると、一帯は遠足の子供たちでにぎわった。地元の岩木町はもちろん、弘前市からも訪れたという。

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岩木山に残る「最大の兼平石」を前にする渋谷さわさん=1997年5月14日、同町兼平地区
 家畜が耕運機に代わるにつれ「木が一本もなく、きれいな形をした山だった」(渋谷さん)高館山は次第に姿を変えていった。草を刈る必要がなくなったため山には木が植えられ、広大な遊休地となった山の裾野はリンゴ園に変わった。遠足の子供たちが飲んだわき水は、リンゴ園のかんがい用水に使われている。

 今は訪れる人がほとんどいない山頂に、三角点がぽつんとあった。三角点の四隅が欠けている。古傷だ。遠足の子供たちがいたずらをしたのだろうか。それとも草刈り作業中に欠いたのだろうか。かつての高館山をかすかにしのばせる“名残”である。

 高館山は近くに兼平石の産地があることで知られる。輝石安山岩の板状節理で、津路地方では古くからこの独特な平らな石を利用してきた。

 兼平石は庭の敷石、井戸の枠組み、家の土台…など身近なところに使われた。このほか、津軽地方の石碑の多くは兼平石で、津軽藩時代の石橋は、たいてい兼平石で造られた。ミイラで発見された津軽承祐公の棺のふたも兼平石だった。また、戦前の弘前駅−みちのく銀行間の道路の石畳にもこの石が使われた。

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兼平石の露天掘り跡、大正時代のものとされる=1997年5月14日
 渋谷さんは、採掘現場を見たことがあるという。「畳より大きな平らな石が数10枚も重なり合っており、それを1枚ずつはがした。毎日作業員5−6人が露天掘りに従事し、トロッコで岩木町五代地区に石を運び、そこから各地に馬で運ぼれて行った」

 兼平地区は、採石の権利を毎年入札で決め、権利金を公共施設整備に充てた。採掘の最盛期は大正時代の末期。渋谷さんの父親は「採掘現場の近くに飲み屋が立つほどにぎわった」と話していたという。しかし、コンクリート出現とともに兼平石の需要は激減し、1935年以降ほとんど採掘されなくなった。

 大正時代の露天掘りの跡に行って見た。雑草の間に、ズリが散乱していた。近くには明治30年代に建立された「石山神社」と刻まれた石碑が建っていた。作業の安全を祈って建てたものらしい。

 兼平石は、今でも兼平地区の家に、敷石や土台として残っている。が、大きい石は見られなくなってしまった。今、同町に残る最も大きいものは、同地区の渋谷さわさん(79)方の庭に置かれている長さ2.73メートル、幅1.14メートル、厚さ8−12センチの石。「譲ってくれ、とさまざまな人がやって来るけど、絶対に手放したくない」。さわさんは、大事そうに石に手を触れながら語った。

<メモ> 伝説残る 安藤一族の拠点

 高館山には安藤一族の伝説が残っている。岩木町誌によると安藤氏は1441(嘉吉元)年から1454(享徳3)年まで、ここを拠点にして南部氏と攻防を繰り広げた。古老らにより「安藤氏は空堀にコメを入れて、水が十分あるように見せ掛けた」と語り継がれている。南部勢2千人に対し安藤勢300人。落城し逃げる途中、安藤氏は持っていた桜の枝のむちを地面に立てたが、それが根付いたのが同町新法師のコブシだった、と伝えられている。

(1997/12/13  東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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