あおもり110山
(すみづかもり  576.6m  平川市=旧碇ケ関村・秋田県小坂町・大館市)
 
■ 山頂に3藩の「境塚」

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円形に土盛りされた津軽・南部・秋田の3藩境塚。約320年前の築造だ=1998年6月10日、炭塚森山頂で
 津軽・南部・秋田の3藩の境だったのが、青秋県境の炭塚森だ。今は碇ケ関村・秋田県小坂町・大館市の3市町村の接点にあたる。小坂町教育委員会と一緒に1998(平成10)年6月10日、炭塚森を訪ねてみた。

 国道282号の坂梨峠に、同教委が立てた「史跡 南部、秋田、津軽藩境炭塚森入口」という標柱がある。この標柱のそばから歩き始めた。県境りょう線に取りつくまでは登山道が付いていたが、そこから先はササやぶ。所々にかすかに残っている営林署の巡視道を頼りに、やぶをこぎながら進んだ。

 歩き始めて約2時間。こんもりとした丸い山が見えてきた。炭塚森だ。この山だけは、ササが低くまばら。難なく山頂に立つことができた。

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こんもりした形をした炭塚森=1998年6月10日、青秋県境りょう線から
 山頂には直径数メートル、高さ約70センチの丸い土盛りがあった。これが藩境塚だ。3藩の役人が協議して境界の接点を決め1677(延宝5)年7月26、27日、ここに境界の目印として塚を造り中に炭を埋めた。それから320年余。訪れる人がほとんどいないため、塚は築造時とあまり変わらない姿を残しているようだ。

 当時、南部藩と秋田藩との間では、この地域一帯の鉱山や良質の杉の領有をめぐって紛争が絶えず、解決まで約70年間もかかった。その結果、炭塚森から南に延びる尾根を境に東側が南部藩(現小坂町)、西側が秋田藩(現大館市)と決まった。

 藩境塚は長い間、人々から忘れられていた。スポットを当てたのは、小坂町文化財保護審議委員長の栗山小八郎さん(故人)だった。栗山さんは、「南部藩と秋田藩の境を確認すべきだ」と提言、古文書など文献を調べ、3藩の接点の炭塚森にはきっと何かがある、と調査を主張した。

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青秋県境坂梨峠に立っている炭塚森の標柱=1998年5月16日
 同教委生涯学習・社会教育課主任の亀沢修さん(37)は「古老たちには『自分たちは南部だ』という意識が強くあった。明治になってから小坂町は、南部藩から秋田県に編入されたが、そのしこりをずっと引きずってきたため、境をはっきりさせたかったのだろう」と振り返る。

 こうして同教委は1984(昭和59)年、初めて炭塚森を調査、塚を確認した。伝承の通り、塚の中には炭が埋められており、その一部を持ち帰った。この調査隊に加わった前町文化財保護審議委員長の中村保夫さん(70)は「ああ、これが炭塚森なのか」と感慨に浸った、という。川上公民館長でもある中村さんは翌85年、社会見学として地域の子供たちに塚を見せたりもした。

 当時、営林署の巡視道がしっかりしていたため、苦労せず炭塚森に登ることができた。しかし今は営林署が巡視道を刈り払っていないため、山頂まで行くのに難航した。中村さんは「昔、3藩の役人が協議して境を決めたので、塚や、それに通じる道の管理はやはり3市町村が協議して決めればよい」と話す。

 一方の関係者の碇ケ関村。30年ぐらい前まで炭塚森の同村側は見事な天然杉の森だった。が、杉は“秋田杉”として伐採・販売され、今は杉に代わってブナの森になっている。村収入役の黒滝卓郎さん(63)は「村民のほとんどは、炭塚森が3藩の境だったことを知らないが、歴史的な価値は高い」と話し98年7月中旬、村単独で塚に通じる道を刈り払った。碇ケ関村もやはり、炭塚森に対する思いに熱いものがある。

<メモ> 戊辰戦争秘話の舞台にも

 戌辰戦争の流れの中で、津軽藩222人は1868(明治元)年9月25日、南部藩領の濁川地区(現小坂町)を攻め焼き打ちにした。大館戊辰戦史によると津軽藩勢は、秋田・南部の両境山から南部領に入った、としている。「両境山」は炭塚森とみられ、前・小坂町文化財保護審議委員長の中村保夫さんは「濁川地区には今でも、津軽藩勢は炭塚森から新遠部沢を経て攻めてきた、との言い伝えが残っている」と言う。

(1998/7/18  東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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