あおもり110山
(ささもりやま  92.4m  弘前市)
 
■ 思い出の地 今は無く

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“新笹森山”山頂に立つ鈴木忠雄さん。「ここは以前、三本木高地と言われていた所」と教えてくれた=1998年10月9日
 弘前市民や旧制弘高生から特別な思いで親しまれてきた笹森山。しかし近年、土砂採取のために削られ、今は陰も形も無くなり、更地が広がっているだけだ。

 笹森山は第8師団の演習場として使われる一方、弘前市内の幼稚園や小学校の遠足に利用され、冬はスキーを楽しむ人たちでにぎわった。市内の子供たちは、まず弘前公園でスキーを練習し、上達すれば笹森山に出掛けて滑ったものだ、という。

 旧制弘高の創立55年記念歌に「教室の窓 抜けいでゝ 笹森山を彷徨えば…」という一節がある。同高卒業生で元弘高校長の鈴木忠雄さん(77)は「県外から入学した人たちは、よく授業をさぼり笹森山で昼寝していた」と懐かしそうに振り返る。

 同校卒業生で元NHKアナウンサーの鈴木健二さん(69)=現県立図書館館長=が入学したのは1945(昭和20)年。「弘前に来て寮の窓を開けたら笹森山、岩木山、津軽の野面が目に飛び込んできた。戦争中とは思えない静けさに驚き、青春の感傷に涙したものだった」

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笹森山山頂付近で憩う旧制弘高生=「記念誌北溟寮」(旧制弘高同窓会刊)より
 笹森山で軍事教練を受けたこと、生まれて初めてのスキーで塹壕(ざんごう)に頭から突っ込んだこと、戦後の食糧難時代に600人の学生の食欲を満たすため寮長としてリンゴ泥棒をしたこと…。笹森山の思い出は尽きない。

 中でも印象に残っているのは46年冬の出来事だった。寮生の一人が遺書を残し姿を消した。手分けして捜索、鈴木健二さんは1人で吹雪の笹森山に向かった。40度近い熱と寒さのため眠気に襲われ「凍死するのでは」と思った。ちょうどその時、仲間が駆け付け、事なきを得た。不明の寮生は無事だった。「彼を殴った。人を殴ったのは一生の中でこれだけだった」

 「旧制弘高生にとって青森は笹森山に凝縮されている。そして私にとっては津軽が心のふるさと。その原点が笹森山なのです」。鈴木健二さんは熱い思いを語ってくれた。

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かつて笹森山があった場所は今、土が削り取られ更地になっている=1998年10月9日
 しかし、その笹森山は今は無い。山が形を変えはじめたのは60年ごろからだった。このころからリンゴ園の整備が行われ、段々状になっていった。67年ごろからは山の北側(城南側)の裾野で住宅開発が行われ、笹森山のイメージが薄れていった。

 さらに68年から自衛隊立地のため山の土を削って用地造成に使い、71年からは近くで市水道部の配水池工事が行われ、このころから笹森山の土は民間にも売られだし、減反田の客土に向けられた。

 80年ごろは、山頂の三角点や農道を残すだけでほとんど削り取られ、間もなく一気に山頂部分が崩されてしまった。実に20年以上にわたって笹森山は徐々に削られていったのである。

 標高106メートルの笹森山の三角点は無くなった。しかし、市は各種測量のため三角点の必要性を訴え、国土地理院は94年、旧笹森山から北東250メートルの高台に三角点を移した。三角点名は「笹森」で標高は92.4メートル。いわば新笹森山である。

 市企画課長の今井二三夫さん(50)は「長期間、徐々に削られたのが笹森山の不幸だった。みんながふと気がついたとき、山はほとんど無くなっていた」と複雑な表情。また鈴木忠雄さんは「市が買い上げて公園に整備すればよかった」と残念がっている。

<メモ> 藩主信枚公がオオカミ狩り

 津軽一統志に、笹森山付近でオオカミ狩りをしたという記述がある。当時、一帯で馬を飼っていたが、馬を狙うオオカミが出没し藩は困っていたらしい。同書によると1621(元和7)年、笹森山付近の典厩館に本陣を構え、藩主信枚公が見守る中、二手に別れて動物を追い出し、オオカミ4頭を捕らえた。大飢きんの後、領民がどんな姿をしているのか見たいと思った信枚公がオオカミ狩り見物を呼び掛け、約1万人が集まった。

(1998/12/26  東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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