あおもり110山
(おびらきやま  508.8m  弘前市・大鰐町)
 
■ クリ山の面影かすか

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尾開山山頂近くになるクリの巨木。幹周は4.8メートルもあり、地元の人たちは“種グリ”と呼んでいる=1998年10月20日
 尾開山登山口に、昔の学校の用務員さんが登下校の時を知らせるために鳴らしたハンドベルがぶら下がっていた。「この先、クマが出没するので注意してください 弘前市役所」と書かれた立て看板が立っている。クマよけに、このベルを使ってください、ということだ。さ細なことながら、行政の気配りが感じられる。看板を見ていたら、急にクマが出てきそうな気配に襲われた。そこで、そのベルを鳴らしながら登り始めた。

 1998(平成10)年10月上旬。山頂近くなるにつれ、登山道に落ちているクリが目立つようになった。見上げたら巨大なクリの木が立っていた。幹の太さに驚き、持っていたひもで計ってみた。なんと胸高の幹周が4.8メートルもあった。見渡すと、あちこちにクリの木がある。尾開山はクリ山だったのだ。

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尾開山山頂から見た弘前市街地=1998年10月6日
 「昔は、山全体がほとんどクリの木で覆われていた。今見られる杉林もリンゴ園も、みんなクリ林だったんだ」と話すのは弘前市石川共有林組合長の工藤市雄さん(73)。尾開山の弘前市側は以前、石川地区が所有しており戦前から戦後にかけて、地区の人たちに払い下げた。現在の地権者は約350人を数え、ほとんどが同地区の人。払い下げを受けた人はクリを次々に伐採し、カネになる杉やリンゴの木に置き換えていった。いま、当時の面影を残すのは山頂付近のクリ林だけとなっている。

 かつて、石川地区の人たちにとってクリは、大切な収入源だった。収穫期に強風が吹くとその夜、太鼓をたたきながら「明日は山開きだ」と地区内を触れ回り翌日午前7時、地区民が山に向かって一斉に走りクリを拾った。クリ拾いはその日の正午まで、と決まっていた。それ以降は自分の山でも入ることは許されなかった。「山を守るためだった」と石川町会長の工藤鉄蔵さん(68)は振り返る。

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阿闍羅山中腹から見た尾開山。左奥は岩木山=1998年10月7日
 半日だけの収穫だが、180キロを拾う家族もあった。このクリを馬に引かせ、黒石、大鰐、平賀、鯵ケ沢など周辺市町村に売りに行った。「コメ1升、クリ1升−と言われたように、コメと同じ価値だった」と鉄蔵さん。中にはクリをコメや魚と交換する人もいた。

 当然クリは、ほかの地区から狙われた。夜陰に紛れて忍び込み拾う人もいた。このため同地区では「1人たりとも山に入れるな」と2カ所に番小屋を建てて見張りを置いたほか、シーズンになれば常時山を巡回した。「運悪く見つかったクリ泥棒は、太鼓を先頭に同地区内を引き回された」(市雄さん)というからすごい執着ぶりだった。

 尾開山は、中世の修験者や津軽藩の戦術師範山鹿一族の修練の場だった、といわれている。彼らもこのクリを拾って食べながら厳しい修練に耐えたのかもしれない。また、弘前城築城の際、尾開山一体の木材が使われた、と伝えられている。このように人々は古くから、尾開山と密接にかかわってきたのだった。

 飽食の時代、尾開山にクリ拾いに訪れる人はほとんどいなくなった。が、市雄さんは今でも毎秋、リュックいっぱいクリを拾っている。「ここのクリは小さいけれどおいしいんだ。農協の直売所にも出しているが、栽培のクリより人気があるよ」。クリ林が少なくなったとはいえ、石川の人たちは、今でも尾開山のクリに強い愛着を抱いている。

<メモ> タ明治天皇巡幸の「お茶の水」

 尾聞山のふもとに、豊富な水量のわき水があり、昔は「長坂の水」と呼ばれていた。1881(明治14)年9月10日、明治天皇が東北ご巡幸の際、弘前市石川地区の斎藤七内氏の家で休憩された。そのとき、地区総出でこの水を選び、天皇にお茶を差し上げた。以来、この水は「お茶の水」と呼ばれている。一帯はきれいに整備され、水をくみに来る人が後を絶たない。1987年、県指定の「私たちの名水」に選ばれた。

(1999/8/6  東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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