あおもり110山
くろもりやま  606.4m  黒石市
 
■ 親しまれる「文学の森」

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落ち着いたたたずまいを見せる黒森山中腹の「文学の森」。右は、もともとここにあった石に碑文をはめ込んだ秋田雨雀の歌碑=1998年11月7日
 標高は高くはないが、ドーム型の特徴的な姿は、南黒地方や弘前市のかなりの所から見える。

 とりわけ、山頂に立っているアンテナが目立つ。NTTが、本州と北海道を結ぶ電話とテレビ電波の中継所として1966(昭和41)年に建設したもので、建物と鉄塔を合わせると高さが29.4メートルある。このほか建設省青森工事事務所の無線中継所、県防災行政無線の中継局も建っている。

 無線の要衝としての機能を持っている黒森山だが、中腹にある浄仙寺の背後には、黒石市ゆかりの文学者の碑が並び、「文学の森」として親しまれている。この、森づくりに尽力したのが、「しばきゅうさん」の愛称で慕われた本県共産党創立者の一人柴田久次郎さん(1901−92年)だった。

 柴田さんは黒石市出身。文学に造けいが深く、火災にあった浄仙寺の復興を手伝っていたとき、山肌にコケ蒸した大岩がごろごろあるのを見て「これだ!」とひらめいた。

「岩に碑文をはめ込めば、立派な歌碑になる」

 計画は柴田さんが中心になって黒石文学会が61年にたてた。浄仙寺も協力してくれた。東京に住んでいた、同市出身の劇作家で児童文学者、詩人の秋田雨雀に柴田さんが計画を打ち明けたところ「歌碑が出来たころ、もう一度黒石を訪ね、黒森にも行ってみたい」と喜んでくれた。

 その後、中村海六郎、天内浪史、長谷川闇五郎、佐藤雨山、秋田たき子、鳴海完造、藤田龍雄、福士一郎、竹内二郎の碑がつくられ、88年の柴田さんの碑を最後に以後はつくられていない。

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釣り鐘形の姿が特徴的な黒森山。山頂に見えるのはNTTのアンテナ=1997年10月3日、黒石市井戸沢地区から
 昔から文学が盛んな土地柄の同市には文学碑が94基もある。このうち13基は、黒森山にある。

 まず雨雀、歌人の丹羽洋岳、鳴海要吉の3人の碑をつくることになった。しかし、雨雀は碑の完成を見ることなく62年5月12日、亡くなった。碑の除幕式は同年6月10日に行われた。雨雀の名の通り、当日は雨だった。

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1944年に火災で焼失したが、66年に再建された浄仙寺の本堂。背後は黒森山=1998年11月7日
 65年9月から一帯は「文学の森」と呼ばれている。その文学の森に、ここ10年は新たな碑がたっていない。黒石文学会合長の山形敏英さん(58)は「山にある自然石をそのまま利用してつくってきたが、その石が無くなり碑をたてる場所が無くなってきたためと、資金も無くなったため」と話す。

 同文学会は62年から雨雀の命日に一番近い日曜日に文学の森まつりを開いている。遺族やゆかりの人たちが集まって13人をしのび、歌碑巡りを楽しむもので、第37回の98年は63人が訪れた。「なんとか50回はやりたい」と山形さん。

 文学の森は、しっとりとしたたたずまいで、そこにいるだけで気持ちが落ち着く。山形さんも「文章を考えたり思索するのにいい場所だ」。

 碑の中で雨雀の歌碑がとくに人気がある、という。

 ひとさしを
  わが手のひらに
   おしあてて
 文字を教えし
  父のなつかし

 目が不自由だった父が、幼い雨雀の手のひらに自分の指でなぞり、文字を教えている情景が目に浮かぶようで、訪れる人々の胸を打つ。

<メモ> 南累地方の教育に頁献

 黒森山中腹にある浄仙寺は1824(文政7)年、山崎是空が開いた。同寺は習字や読書を指導する寺子屋を1913(大正2)年まで運営、南黒地方の教育に果たした役割は大きい。この黒森学校の卒業生には鎌田又次郎常盤村村長、成田治女鹿沢村(現浪岡町)村長、石村正義大杉村(同)村長らがいる。二世寂導は彫刻に優れ、寂導彫りの仏像を多く残した。本堂は44(昭和19)年焼失、66年に再建された。

(1999/4/3  東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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