あおもり110山
(いかづちやま  635.9m  黒石市)
 
■ わずか2戸で牧場使う

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「元気なこどもをおなかに持って」と願いを込め雌牛を放牧する種市繁樹さん(車の上)=1998年5月15日、雷山牧場
 おわんを引っくり返したような形をしている雷山の山頂や中腹に、牧草地が広がっている。雷山牧場、広さ100ヘクタール。この牧場を利用しているのは黒石市浅瀬石の種市登さん(62)と同市花巻の工藤勇さん(73)のわずか2戸だ。

 1998(平成10)年の開牧は5月15日だった。種市さんは28頭、工藤さんは14頭を何回にも分けて牧場に運び上げた。放された牛は最初興奮気味だったが、すぐ親子が一緒になりのんびりと新鮮な牧草を食べていた。これ以後も徐々に野上げしていき、最終的には年間約65頭が利用する。

 かつて黒石市には牛の飼養農家が28戸あった。これらの農家で雷山牧野組合を設立。さらに、雷山を管理している浅瀬石財産区議員全員が杉の間伐材を利用して牧柵(さく)を造り66(昭和41)年、牧場を新設。財産区が牧野組合に賃貸してきた。当初、各農家は親牛を2−3頭だけ飼っており、子牛生産が中心だった。

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採草地になっている、平たんな雷山山頂部。八甲田の山々が望める=1998年5月15日
 しかし、畜産経営は困難が多かった。後継者が育たないため、次第に組合員数が減っていき、84年の子牛販売価格暴落と91年の牛肉輸入自由化を契機に一気に減少した。そして5年前からは種市さんと工藤さんの2人だけになってしまった。2人で黒石市肉牛生産組合を組繊、種市さんが組合長を務める。「これも時代の流れ」と種市さんは淡々と語る。

 種市さんの父は、牧野組合設立時の組合員の1人。父から経営を受け継いだのは67年のことだった。最初は子牛出荷専門だったが、所得向上をめざし肥育牛生産を組み合わせた一貫経営に拡大させた。受精卵移植にも積極的で、今春放牧した中に受精卵移植で生まれた子牛も3頭含まれている。畜産のほかリンゴ、コメ、サクランボも作っている複合経営農家だ。

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なだらかな雷山(中央)=1998年6月7日、田代山中腹から
 雷山をほぽ1人で使っていることの利点は「自分の牧場のように使えること。リンゴ、コメと重ならないように時間調整できる。月に2回の家畜保健所の検査も自分の都合に合わせてもらっている。多人数が利用していると、自分の都合より他人に合わせなければならないからね」。

 利点の“代償”として不具合がある。毎春の牧柵整備がつらい。種市さんと工藤さんが自力でやらなければならないからだ。雪が多い年はバラ線が千切れ、くいは倒れる。これを修復するのは大変な労力を費やす。

 精神的な厳しさが、また大きい。「賃貸料を払っているのだが、一人で借りているようなものなので迷惑をかけているような気持ちになる」と気兼ねの思いがぬぐいきれない。以前は5年契約だったが今は1年契約に。このため草地更新ができないでいる。

 さらに以前、雷山でゴルフ場開発やリゾート開発の話が持ち上がったが、バブル崩壊で立ち消えとなり牧場は命拾いした。「借り手は弱い立場だよ。私が畜産をやめれば、ここに植林するという話がある」とため息をついた。

 種市さんには後継者の繁樹さん(34)がいる。家畜人工授精士の資格も取りやる気満々だ。「系統的に良いものをつくっているから将来展望はある。今年の子牛は良さそうだ」と語る繁樹さんの口調は自信にあふれている。

 牧場でエゾハルゼミが一斉に鳴きだした。父と子の思いをセミ時雨が包み込んだ。

<メモ> 明治時代、入会権訴訟も

 雷山は江戸時代初期から薪炭材を採取する山として利用され、元禄時代には一部を採草地に使ってきた。津軽藩が山林制度を確立するため、大山頭を置いて管理したこともある。1906(明治39)年に山形村(現黒石市)と浅瀬石村(同)との間で雷山の入会権をめぐり訴訟が起き3年後、浅瀬石村が山形村に2450円を払いこの山の権利を得て和解した。1954(昭和29)年から浅瀬石財産区が管理している。

(1998/7/4  東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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