あおもり110山
(がんもり  588m  弘前市=旧相馬村)
 
■ 語り継がれる死の伝説

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鋭角的な棺森(中央)遠くからでも目立つ。手前の集落は相馬村湯口=1997年7月17日、弘前市下湯口から
 伝説に彩られた山である。山の名も2説ある。地元の人たちは「がんもり」と呼んでいるが、呼び名に漢字を当てはめると「棺森」という人もあれば、「雁森」という人もいる。

 棺森。死者を入れる棺おけの森。穏やかではない。この文字は大日本帝国陸地測量部(現建設省国土地理院)が1915(大正4)年、5万分の1の地図を発行した時に使われ正式名となっている。

 名の通り、死にまつわる伝説が多い。相馬村誌の編さん委員長を務めた同村山田の中沢秀義さん(80)は、若いときから郷土の歴史に興味を持ち35(昭和10)年ごろから精力的に村内の伝説を収集。その中に棺森伝説があった。

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棺森山頂から望む久渡寺山=1998年3月11日
 「坂上田村麻呂が蝦夷征伐をした当時、津軽はメノコという優れた女性が統治していた。その館は相馬村藤沢にあった。田村麻呂の軍勢は館を七重に取り囲んで攻め、メノコは包囲綱をかいくぐり棺森に逃げたが、そこで殺された。遺体を棺森に埋めたが、夜な夜な女が叫ぶ声が聞こえたり、墓石が動くため、兵士はすっかり戦意を喪失した。そこで遺体を相馬村湯口に移し、権現さまと合祀(ごうし)したら鎮まった。その場所が今の石堂神社といわれている」

 中沢さんは「だから、がんもりの字は棺森を当てるのが至当だ」と言う。このほか「長慶天皇の墓が棺森にある、と言って調べに来た人もいる。山頂にだれかの墓があると言う人もいる」。

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棺森を目指す。山頂のように見えるのは尾根の肩=1997年8月17日
 棺森に近い藍内地区を訪ねた。長年営林署の作業員を務めた福田喜代成さん(67)も「地区では棺森に墓があると言われている。以前、弘前市の人から『墓を見たいので山頂まで連れていってくれ』と頼まれ案内したことがあったが、やぶがひどくて山頂までは行けなかった」と言う。また、津軽為信に追われた三ツ目内玄蕃が棺森に逃げ、ここで亡くなり墓もある、という伝説がある。福田さんは「棺森には玄蕃沢という名の沢があるんです」。とにかくやたらに「死」が絡む。

 一方、同村湯口には「がんもりは、雁森の字を当てる」という人がいる。公的機関で雁森を使っているのは営林署だ。農商務省山林局(現林野庁)が1903(明治36)年、地図を作るため山頂に森林三角点を埋め測量した。このとき三角点名を雁森とし現在の森杯計画図や林班図でも雁森の名を使っている。

 雁森ということは、渡り鳥のコースか。福田さんは言う。「晩秋と早春、藍内地区の上空を白鳥とガンが群れ飛ぶ。白鳥の方が多い。200−300羽の群れで飛ぶこともある。晩秋、ガンが飛んで行くと雪が降る、と地区の人たちは言う。渡りがあって2−3日すると寒くなって本当に雪が降る。春に渡りを見ると、みんな『これから温かくなるぞ−』と気持ちが軽くなる。渡り鳥は季節を告げる神様みたいなもんだ」。雁森という字を当てる根拠も確かにあるのである。

 夏、尾根に細々とついている営林署の管理道をたどって山頂手前の小さな峰まで登った。そこからは濃密なやぶのため、残雪期にあらためて出掛け、山頂に登った。山頂は雪に覆われており、墓などの存在を示すものは無かった。簡単には行けない山頂だからこそ、さまざまな伝説が生まれたのだろうか。ふと、そう思った。

<メモ> 紙漉沢に残る長慶天皇伝説

 相馬村には長慶天皇伝説がある。長慶天皇は南北朝時代の南朝第3代の天皇(在位1368−1383年)。都の混乱を避け、浪岡を経て相馬村紙漉沢に移られ1403(応永10)年、同地で崩御されたという。崩御の地と伝えられる場所は全国各地にあり宮内省は1908(明治41年)、紙漉沢を御陵墓参考地に指定した。しかし44(昭和19)年、御陵墓は京都・嵯峨野の元慶寿院跡と定められ、参考地は廃止された。

(1998/4/18  東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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