あおもり110山
(とわだやま  664.1m  大鰐町)
 
■ 津軽各地に石を供給

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大鰐町側から見た阿蘇ケ岳。かつて同町の子供たちは遠足で山頂まで登った=1997年10月19日、大鰐町駒ノ台から
 大鰐町と平賀町の境に立つ阿蘇ケ岳。形の良い山だが、なかでも大鰐町駒ノ台地区から見る眺めが一番だ。登山意欲がそそられる山で、かつては学校登山に利用された。

 「大鰐小在学中、阿蘇ケ岳は遠足で行く山の一つだった。学校から山頂まで歩いて約2時間。山は家畜のえさの草刈り場で、刈ったあとに遠足で行ったから、山頂からの眺めは360度で抜群だった。われわれの年代にとって、思い出深い山だ」。大鰐町農林課課長補佐の日村保久さん(53)は、このような思い出を教えてくれた。同課農政係長の工藤啓一さん(44)も「長峰小のとき、この山に登りスキーで遊んだ」と言う。

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平賀町側から見た阿蘇ケ岳。平賀砕石が採石をしている=1998年11月4日、県道唐竹高原線から
 阿蘇ケ岳に登ってみた。採草地でなくなってから随分たつため道は消え、ツル植物が多いやぶに苦戦しながら登った。山頂の草丈は高かったが、それでも岩木山や弘前市街地の一部が望まれ、かつての眺望の良さをうかがわせた。

 昔、採草地だった山は今、採石地になっている。大鰐町側は三上砕石(弘前市)、平賀町側は平賀砕石(平賀町)が採掘している。

 このうち、平賀砕石がここで事業に取り組んだのには、ちょっとしたいきさつがあった。平賀町は1966(昭和41)年から、阿蘇ケ岳のふもとの同町唐竹地区で、町営採石事業を始めた。町道整備など町の土木事業を自前の石(安山岩)で賄おうとしたのだった。しかし、赤字が続き72年に撤退した。

 町は引き受け先を探し、当時既に同町に進出していた縦貫道路(本社・七戸町)に要請。社長の哘(さそう)富雄さん(72)は受諾した。「町から『困っているから頼む』と言われ『いいですよ』と答えた。縦貫道路は道路舗装の会社で、採石のノウハウは持っていなかったが、そんなに難しいとは思わなかった」と哘さんは当時を振り返る。

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阿蘇ケ岳山頂から見た岩木山=1998年10月29日
 こうして、町から事業を引き継いだ哘さんは採石を始めたが、簡単な仕事ではなかった。収支が合わず操業を休止せぎるを得なかった。そこへ、大鰐町に建設する早瀬野ダムに使う石を供給してほしい、という話が舞い込んだ。

 哘さんは別会社の平賀砕石を79年に設立、操業を再開した。以来、道路用、コンクリート用など平賀町を中心にした津軽地方各地の公共事業に石を供給している。

 苦労は多かった。地元唐竹地区に環境面で迷惑をかけないよう細心の注意を払い、友好関係を築いた。また、表土が厚く平均で20メートルもあるのが悩みだった。表土をはぐのに多額のカネがかかり、事業が採算ベースに乗ったのは、ここ数年のこと、という。

 「あと20年ぐらい石が採れる。採掘跡は復元し、平らな土地にすることにしている。眺めが良い場所なので、町は何かに利用できると思う」と哘さんは話している。

 一方平賀町役場では、町営採石場失敗の教訓が、今も財政運営に生きている。「役場は商売をすべきでない」という反省が、バブル期に各自治体が手掛けたリゾート開発などにブレーキをかけ、ひたすら手堅くやってきた。その結果、バブルのつけに泣かされている各自治体から「うらやましい」と言われるほどの健全財政を維持している。

 「けがの功名です」。町総務課長の中畑忠弘さん(59)は苦笑する。何が幸いするか分からない。

<メモ> 山頂の“遺跡”が話題に

 阿蘇ケ岳山頂付近で竹館村(現平賀町)国民学校の葛西覧造訓導が1941(昭和16)年、竪穴と鋤(すき)を発見し当時、大きな話題となった。鋤は戦時中のどさくさに無くなったが、何らかの遺跡だったのではないか、とみられている。「坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際、阿蘇ケ岳山頂に本陣を構えたが、眼病になった。ふもとの清水で目を洗ったら治った。この水が名水『渾神の清水』だった」という伝説が地元に残っている。

(1997/8/9  東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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