あおもり110山
(あじゃらやま  496m  大鰐町・平川市=旧碇ケ関村)
 
■ 競技スキーのメッカ

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山全体がスキー場になっている阿闍羅山。各コースがよく見える=1999年1月18日、大鰐町善福寺付近
 阿闍羅山は、わが国競技スキーのメッカといわれる。

 が、スキーが本県に入ってきた当初、スキー普及の役割を担っていたのは青森市新城だった。1922(大正11)年の県教委主催の講習会と競技会、翌23年に開かれた青森スキー倶楽部(県スキー連盟の前身)の第1回講習会(講師は油川貞策大尉)はいずれも新城で開かれた。

 これらの動きに刺激を受けたのが原子保雄氏ら大鰐の青年団だった。「阿闍羅山にスキー場を造り温泉と一緒に売り出そう」と地元出身の油川大尉に働き掛けた。大尉は快諾。中隊を引き連れてコースを整備し22年末、阿闍羅山にスキー揚が完成した。

 以来、阿闍羅山のスキー場では多くの全国大会が開かれ、わが国の競技スキー界に確固とした地位を築いた。

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阿闍羅山の前平から見る大鰐町の町並み=1998年9月7日
 阿闍羅山は地元選手を育て多くの五輪選手を輩出した。大鰐町出身の五輪選手は32(昭和7)年大会の山田勝巳に始まり、36年の山田伸三、山田銀蔵、52年の山本謙一、64年の山中勇治、八幡長五郎、68年の松岡(現姓長崎)昭義、72年の札幌大会の松岡(同)昭義、84年の山田秀明−の8選手(延べ9人)を数える。また山本さんは68年大会の監督、同町出身の山田肆郎さんは64年と72年大会にコーチとして参加した。

 2大会に出場した長崎昭義さん(53)=青森放送東京支社長=は「スキー人生19年のうち阿闍羅山とかかわったのは11年。私の原点は阿闍羅山です」と言い切る。大鰐スキークラブ会長を務めた父儀助さんに連れられ小学3−4年のころから阿闍羅山で滑り始め、間もなく「学校で一番早かったから」自然な形で距離スキーに入っていった。

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全国唯一のスキー神社と宮司の猪俣克彦さん=1998年12月12日、阿闍羅山中腹
 弘高で長利武記さんの指導のもと力をつけ2年のとき、インターハイ男子15キロで優勝、さらにこの大会で弘高はリレーに優勝、長崎さんは全国にデビューした。「阿闍羅山中腹は、標高差200メートルの適度なアップダウンがとれる、距離競技に最適なコース。この15キロコースで夏はランニング、冬はスキーと1年中毎日猛練習をした。だから勝てた、と思う。練習中、農家の人がリンゴを差しいれてくれたっけ」と思い出を語る。

 興味深いのは、五輪8選手全員がノルディックで、アルペン選手がいないことだ。これについて長崎さんは「阿闍羅山の距離コースが素晴らしいことと、大鰐では距離競技に人気があったから」とみる。また「選手や大会を陰で支えてくれた地元関係者の情熱があったからこそ、私たちが強くなれた。本当に感謝している。スキー場経営はいま、大きな負債を抱えているが、地元関係者の情熱が続く限りこの困難を乗り切れると思う」と話している。

 阿闍羅山中腹に小さなほこらがある。全国唯一のスキー神社だ。スキー揚でのけがを防ぐため35(昭和10)年、青森営林局などが中心になって建立した。戦後、営林局は大鰐スキークラブに譲渡、以後、同クラブが管理している。現在、スキー功労者36人の御霊が合祀(ごうし)され、同町貴船神社宮司の猪俣克彦さん(37)が97年から宮司を務めている。

 「スキー場の千客万来と場内の安全を祈願しています。祈りの中心はやはり安全ですね」。全国唯一の神社の宮司さんはそう語った。

<メモ> かつては山岳信仰の対象

 阿闍羅山は古代から山岳信仰の対象になっていた、といわれる。さらに中世には、山頂に大日堂、不動堂、観音堂が建てられ、これらを含め「阿闍羅千坊」といわれていた、と伝えられている。また阿闍羅山は修験の聖地だった、とされている。阿闍羅の語源については(1)不動明王を梵(ぼん)語でアチャラということから(2)五輪塔をアバラということから(3)高僧の阿闍梨(あじゃり)がいる山だから−の仏教にちなんだ3説がある。

(1999/2/13  東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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