あおもり110山
(おっぷだけ  1083.4m  西目屋村)
 
■ 鉱山が村の盛衰を左右

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残月と尾太岳。この山の地中に総延長77キロの坑道が掘られた。緑の葉を付けている木はヒバ=97年10月22日、県道西目屋二ツ井線から
 きれいな三角形をした山である。白神山地の山々の山頂に立つと、その多くの所から尾太岳を望むことができる。それほど目立つ山だ。

 この尾太岳を語るとき、尾太鉱山を抜きにはできない。言い伝えによると、同鉱山は奈良時代の初めごろから銅が掘り出され聖武天皇時代、奈良の大仏や鐘の鋳造に利用された、といわれる。

 藩政時代から盛んに採鉱され山の一帯には一大集落ができ、全国から逃げてきた隠れキリシタンの安住の地になった、という伝説もある。鉱山は津軽藩財政のドル箱で、弘前−相馬村沢田−尾太岳に道が開かれた。

 1888(明治21)年に休山になるが、1935(昭和10)年から細々と採鉱が再開される。戦後も経営権が転々と移りながら小規模に採鉱、本格的な採鉱が始まったのは52年、三菱金属鉱業の現地法人尾富鉱業が発足してからだった。

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尾太岳中腹にある鉱山本抗跡の抗口。鉱毒水をパイプで下まで運び、無毒処理している=99年6月19日
 この新生尾太鉱山のスタート時から78年の閉山までの26年間、削岩機を握り坑道の最前線の切り羽に立ち続けたのが弘前市国吉の奈良富士男さん(66)だ。奈良さんは秋田県鹿角市出身。三菱系の尾去沢鉱山で働いていたが、同系の尾太鉱山が開かれたことにより、正社員として53年、尾太に派遣されたのだった。

 現在の採鉱は、粉じん防止のため水を掛けながら行うが、当時はそれを面倒がり水無しで掘った。防ぐのは口と鼻をふさぐタオルだけ。猛烈な粉じんはタオルを通り、鼻をかむと紙は真っ黒になった。坑道は湿度が高く、シャツはいつも汗まみれだった。

 鉱山の稼働期間中、最初から最後まで削岩機を握ったのは奈良さんを含め12−13人。しかし、いま生きているのは奈良さん一人だけだ。「みんなじん肺などにやられ閉山後、40−50歳代で次々死んでいった」。想像を絶する劣悪な環境だった。それに耐えたのは「三菱の社員という誇りがあったからだ。与えられた一生の仕事だと思ってやってきた。だからつらいと思ったことは無い」。

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尾太岳山頂にある灯ろう。「安永四年四月 奉寄進石燈籠 尾太銅山三上兵助」と読めた=97年10月22日
 なぜ奈良さんだけが今も元気なのだろうか。「自分で自分の体を作ったからだ。家から鉱山まで走って通い、仕事が終わってからも走って鍛えた。一日30キロは走った。じん肺にならなかったのは、体を鍛えたおかげ、と思わざるをえない」。

 尾太鉱山の主力は銅。このほか鉛、亜鉛、金、銀が産出した。外から見ると静かな山だが、その中に総延長77キロの坑道が掘られ、最盛期の65年ごろは毎月約2万5000トンの粗鉱を掘り出した。

 西目屋村の人口が最も多かったのは60年の5346人。そのころ、尾太地区には1500人の鉱山関係者が住んでおり、同村最大の集落だった。弘前市にさきがけてスーパーマーケットができたり、尾太地区のバイク保有率が県内一だったこともある。当時、「弘前の店の人に『尾太の人でなければ一万円札(58年発行)を持っていない』と言われたものだ」と奈良さんは懐かしむ。

 しかし、山が掘り尽くされ採算に合わなくなったため78年、閉山に追い込まれた。これを機に本県に鉱山は無くなった。栄華を誇った尾太地区は消滅、村の人口は激減をたどり99年7月現在、2314人しかいない。

<メモ> 鉱毒処理に年間2億円余

 尾太鉱山閉山を受け、県は1981年から鉱害防止事業に取り組んでいる。3力所の抗口から酸性水が出ており、この水に亜鉛、マンガン、銅、鉛、カドミウムなと重金属が含まれているため、これら金属を取り除き水を中和させてから放水している。抗廃水処理は、新福舟に委託している。併せて県は、古くなった鉱害防止施設の更新も進めている。廃水の年間処理費は2億4000万円。抗口から水が出ている限り処理は続けられる。

(1999/9/4  東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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