あおもり110山
(ちゃうすやま  894m  深浦町)
 
■ 開拓集落ふれあいの場

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茶臼山山頂の手前の吾妻峰山頂に集う長慶平の人たち。中央奥に白く小さく見えるのが長慶平小中学校=1998年10月11日
 白神山地のふところに抱かれた開拓集落の長慶平。周囲は山また山。苦労して切り開いた土地に家屋が点在している。人々の喜びと悲しみを見つめてきたのが茶臼山だ。

 長慶平小中学校の地域ふれあい野外学習の茶臼山登山は、やっと好天に恵まれた。1997(平成9)年10月5日に計画したが雨で中止、98年も10月4日に予定したが雨で流れ1週間後の11日、ようやく実現した。「なんとしてもやりたかった」。同枚の校長蝦名憲英さん(56)はうれしそうに語った。

 参加者は小学生4人、中学生6人の全校児童生徒、教職員、地域の人たちの合わせて約40人。同校緑の少年団指導者会会長の後藤市夫さん(41)の案内で一列縦隊になってゆっくり登る。カナダ人の英語指導助手も一緒だ。

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茶臼山の山頂に立つ長慶平小中学校の全校児童生徒10人=1998年10月11日
 茶臼山手前のピーク吾妻峰に着いたら、眺望が一気に開けた。眼下に長慶平の家屋が点在、学校も小さく見える。その向こうに日本海が広がる。「すごい」。子供たちから歓声が上がった。豚汁づくりの人たちを残し、子供たちらはここから約30分の茶臼山山項をめざした。山頂からは向白神岳、崩山など白神山地の山々が眺望できた。

 茶臼山登山を提唱したのは岩木山岳会会長を務めた同校元校長の故米谷茂夫さんだった。「深浦町には登山対象の山が無い。茶臼山はいい山なので、この山に登らせるべきだ」。当時、茶臼山には道が全く無かった。米谷さんの提言を受け町教委が76(昭和51)年、登山道づくりに取り組んだ。

 まずルート選定から始まった。長慶平の森林組合作業員の斉藤〓(石へんに教)さん(54)と教委が担当したが「ものすごいやぶだった。踏査だけで3日かかった」と斉藤さんは振り返る。そして斉藤さんら13人が10日間をかけてやぶを刈り払い同年、登山道が完成した。

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上が丸い形をしている茶臼山=1997年4月26日、岩崎村沢辺の国道101号から
 道ができたことで教委は翌年、茶臼山で町民登山大会を聞き約50人が登った。同大会は5年ほど続いたが、その後登らなくなり、道はやぶに戻っていった。

 「子供たちを地元の山に登らせたい」と再び茶臼山登山を提唱したのは元同校校長の坂本啓さんだった。95年のことだった。斉藤さんらは道を覆うササを刈り払い、急斜面にはステップを刻んだ。そして同年、同校の子供たちは地域ふれあい野外学習として茶臼山に登った。今回の登山は復活2回目だった。

 吾妻峰に戻ってきたら、地域の人たち心尽くしの豚汁が出来ていた。早速、昼食。自分たちの地域を見下ろしながらの昼食は格別だ。「子供たちは学校や家を山から見て感慨ひとしおだった、と思う。子供たちが家庭や地域を誇りにしているのがいい」と校長の蝦名さん。また道案内した後藤さんは「ふるさとの自然を子供たちの心にとめてもらいたい。子供たちが大きくなってからも『茶臼山に登ったんだ』と記憶に残してもらえればいい」と子供たちにまなざしを送りながら語った。

 99年春、長慶平中学校から4年ぶりの卒業生が出る。伊藤洋子さん(15)だ。「小さいと思っていた茶臼山が大きく感じられた。きょうは大きな思い出のひとつになった」と話したあと「大学を出て先生になり、長慶平の学校の教檀に立ちたい。でも、それまで学校があるのかどうか心配です」と語り、表情をすこし曇らせた。

<メモ> 引き揚げ者が切り開く

 深浦町の長慶平は1947(昭和22)年から、満州やサハリンからの引き揚げ者によって切り開かれた。同年、男性22人が合宿して越冬。仮小屋が出来た翌年、山形、宮城、秋田などに住んでいる妻子を呼び寄せた。ジャガ芋や木炭をつくり生活基盤を整えた。入植は54年まで続き、人口は最大で三百数十人だったが、98年現在、109人となっている。長慶平小中学校校歌2番に「スバルはまたたく茶臼山」の一節がある。

(1998/11/28  東奥日報朝刊に掲載)本文中の、市町村名、人の年齢や肩書きは、取材当時のものです


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